デザインに込めた思いが世界を歩く、高知愛から始まる物語|株式会社ブランド高知
あなたにとっての「地元」はどこでしょうか。どんな思い出があり、どんな風景を懐かしむでしょうか。生まれ育った場所から離れても、あるいは大人になってから親しんだ場所であっても大切にしたい場所というのが誰しもにあるかと思います。
そんな故郷への愛を形にしたのが、株式会社ブランド高知、代表の中島 匠一さんです。様々な商品開発の根幹にある高知愛のこもった言葉の数々は、思わずその場を訪ねたくなるほど鮮明な景色を私たちに伝えてくれます。開発に携わる方はもちろん、仕事の合間にふとこのインタビューにたどり着いてくれた方の体温を上げてくれるような素敵なメッセージをお届けします。
高知愛を込めたブランドの原点
今日はお時間をいただきありがとうございます。
株式会社ブランド高知、代表の中島匠一さん。早速ですが匠というお名前、すごくかっこいいですよね。
ありがとうございます。親が名前をつけてくれた時に、運命が決まった感じがします。
ものづくりに関わる仕事をしているので、確かに名前のイメージに沿っていますね。
事業内容について教えてください。
財布や服飾雑貨に『高知』のロゴと、私が制作したフォントを使ってデザインし、企画・製造・販売を行っています。企業とのコラボの際も同じロゴを使っています。
「高知愛」を持ち歩ける商品を作ることが大元の目的です。雑貨の他にも、高知県室戸市の海洋深層水を使用した化粧水の事業や、高知県のゆるキャラをモチーフにした3Dカードの発明も手掛けています。
多岐に渡る事業に一貫するのが「高知愛」ということですね。このロゴはご自身でデザインされたのでしょうか。
はい、自分でデザインしました。私は大阪芸術大学出身なのですが、実はデザイン系の学科ではなく、芸術計画学科でアートプランニングを学びました。デザイン以外にも映像・音楽・写真など、幅広い分野を学びました。
このデザインは、アラビア文字の影響を受けています。授業中にアラビア書道の模様を参考にノートの端にラクガキしていました。それを漢字やカタカナに応用し、「高知」という文字に反映させたのです。
イスラム文化の模様って、とても美しいんです。モスクや宮殿の装飾、映画で見るアラブの世界観に憧れていました。
このプロジェクトを始めたのはいつ頃ですか。
2017年の終わり頃ですね。完成形に至るまで、半年ほどかかりました。ただ、最初は起業というより、右も左もわからない個人事業主でした。とにかく高知のロゴを使った財布を作り、人に見せて回ることから始めました。
いきなり工場で作れるあてもないですし、大学を卒業したばかりで何も持っていませんでしたから、ダイソーで既製品の財布を買ってきて、そこにボールペンでロゴを書いたのが始まりです。その後、サインペンやステンシル、スプレーを使って試作を進めていきました。ロゴ自体はずっと変わっていません。カリグラフィーペンを使い、iPadのアプリで書いたデータをベクターデータとして保存しました。それを元にパターンを連続させているので、最初から変わっていません。
大学を出てすぐブランドを立ち上げるというのは大変だったかと思います。
逆に、卒業してから全力を注ぐ対象がこれしかなかったので、短期間で仕上げることができました。ひたすらこのプロジェクトに集中していた結果、世界にまで進出しました。
最初は大阪の工場を回ったのですがうまくいかず、最終的に中国とバングラデシュまで足を運びました。巨大な製品を自分で運ぶため、20〜200キロほどの荷物を台車で引っ張りました。砂嵐の中、タイヤが壊れるたびに台車を買い替えて、何とか持ち帰りました。
本当に気合と根性でした。輸送費を節約するため自分で持ち帰ると決めたので、200個以上の製品をキャリーに縛り付けて運ぶ行商のような姿になりました。すべては高知愛があったからできたことです。なければ途中で投げ出していたと思います。
なぜコンテンツに財布を選んだのでしょうか。
文字を見せるためには、キーホルダーのような小さなものでは不十分です。長財布なら広い面積を見せられるし、アイテムとしても買いやすいと思いました。
自分自身は元々ブランド品に興味があったわけではなく、むしろ「高いブランド品より、しまむらでいい」と思うタイプでした。自分の表現したいものをシンプルに、かっこつけず、ユーモアも交えて作れた点が良いと思っています。
おっしゃる通り、敷居が高すぎるような、嫌味がなく、ロゴにもキャラクターにも温かみがあります。アメリカのブランド・COACHとのコラボも夢みてるという話をうかがいました。
まだその話は進んでいません。許可をいただくまでが大変でしたが、「COACHのものだと誤認させないように注意喚起いただければ、製品の販売はOK」と言っていただけたところです。ただ、コラボをお願いするにはまだ恐れ多いと感じています。
それぞれの魅力がうまく融合したら面白いと思いますし、ブランド力が上がって、コラボの話が来るなんてことになればホントに嬉しいです。そこを目指したいですね。
コラボのお話しでいくと、村上隆さんとのコラボを考えさせていただいています。村上さんを尊敬しているんです。彼の、芸術を経営に昇華させる姿勢からは、学ぶことが多いです。芸術を経営と結びつける意識は芸術計画学科で学んだこともありますが、本腰を入れて向き合ったのは、村上隆さんの著書『芸術企業論』を拝読してからです。
他にも、ロールモデルとなる方はいらっしゃいますか。
ロバート秋山さんです。最近、YouTubeでロバート秋山さんと村上隆さんが共演していて、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。ロバート秋山さんが村上隆さんの完全モノマネをして、二人で出演しているのを見て、「やっぱり当たっていたな」と思いました。
お笑いと芸術は通じる部分があります。ロバート秋山さんを尊敬していることを大学の授業レポートに書いたところ、それを見たフジテレビさんから声をかけていただき、共演が実現しました。
それまで、私は経営者は特別な環境で育った人しかなれないのではと思っていました。芸術家やファッションデザイナーも遠い存在だと感じていましたが、ロバート秋山さんが「クリエイターズファイル」で様々なクリエイターになりきっているのを見て感銘を受けました。
具体的にはどんなところが響いたのですか。
彼がファッションデザイナーとしてわざとカレーをTシャツにかけて、カレー染みを表現したシャツを作るなど、逆転の発想で作品を作る姿勢がすごいと思いました。それは芸術の考え方です。意識的にやっているのか直感かは分かりませんが、芸術の本質に触れていると感じました。
そんな秋山さんにもデザインについて「中島くんだからいいんだよ」と言っていただきました。「かっこつけた若造が作ったブランドとは違う」と評価をいただいて、自分らしいブランドができたと実感できた、嬉しい言葉です。
学び、挑む。高知凱旋の一手
試作品の時点で良い反響を得たと聞きましたが、周囲にはどのように伝えられたのでしょうか。
当時、経営者の交流会に参加していて、いろいろと起業の勉強をしていました。その会で企画やアイデアをお披露目する場があったんです。交流会には高知の財布が生まれる前から参加していて、そこで手作りの発明品を披露するのがライフワークになっていました。
これまでのどの発明品よりも反応が良くて驚きました。「これは面白い」「高知愛が伝わる」と言ってくださる方が多くて、これならバズるに違いないと思いました。当時はまだスプレーで書いた試作品でしたが、それでも現場で笑いを生んだので、「これはやるしかない」と確信しました。
これで高知に恩返しできると感じました。経営者の方々から「もっとこうした方がいい」「この工場を訪れてみては?」とアドバイスをいただき、足を運びながらどんどん改良を重ねました。
周囲の方々の反応が誕生の原動力だったのですね。
そうですね。それから、高知に帰りたい思いで奮闘したというのもあります。当時私はまだ高知に帰れていませんでした。大学卒業後、就職できずフリーターだったので、親にも顔を見せられなかったんです。大阪で頑張っていましたが、「故郷に錦を飾れるような実績を持って帰らなければ」と思っていました。夢が叶って、やっと帰れると思いました。
これまで様々な発明をしてきましたが、この財布は別格です。最初は単純に「面白ければいいか」という感覚でした。でも、この財布だけは、初めて強い思い「使命」が込められたものでした。思いの強さは、それが「続くかどうか」の違いに繋がります。それまでの発明品は、その場の笑いを取れれば良いというものばかりでしたが、この財布だけは生涯を通してやらなければならないと思えるものでした。
ご家族に見せた時の反応はいかがでしたか。
最初は「いらない」「何をやっているんだ」と言われましたね。うまくいくはずがない、と。いろいろな人からも同じことを言われました。ただ、一部の人が『これはすごい』と言ってくれたのが励みになりました。そして何より、自分自身が「これを最高の形に仕上げたい」と思えたんです。当時はスプレーで描いたベタベタした表面でしたが、理想の形に近づけるために改良と開発を続ける決意をしました。
ご家族に会えたのはいつ頃ですか。
まだこの財布が日の目を見る前に、堀江貴文さんがクラウドファンディングを支援してくれたのです。その時に「親に顔を見せられるかも」と思いました。クラファンも成功し、少しずつ注目を浴び、高知に戻れる兆しを感じました。
両親は僕が注目されても冷静で、特に父は常に懐疑的でした。母は応援してくれましたが、父は「しんどいだけじゃないのか」「誰が買うんだ」と平気で言う人でした。でも、そんな環境がバランスを取ってくれていたのだと思います。
高知への強い思いがすべての原動力なのですね。「高知愛」や地元を大事にしたいという気持ちは、どこから出てきたのでしょうか。
出身は宮城県で、その後、鹿児島県を経て中学1年生から高知県に住むようになりました。当時は不登校気味だったのですが、高知のフリースクールと出会い、人生が大きく変わりました。同じ不登校だった仲間たちや先生方と出会えたことで、自分に仲間ができました。「夢を持っていいんだ」という思いに変わりました。そして、そんな先生方への恩返しをしたいと思ったんです。特に先生が「アートを目指してみたら?」と声をかけてくれたことが大きなきっかけでした。
当時は学校を抜け出して、裏山のてっぺんから高知市内を見渡すのが好きでした。その山は結構高く、展望台からの景色が素晴らしかったです。また、学校の前には川があり、街中なのに自然が豊かでした。そこで植物を編んで1人で船を作ったりしていました。両側から縛れないのでゆるゆるで、人を乗せると沈みました(笑)。でも、人を乗せるぐらいの大きさにはしました。
高知市内はそんなに自然が豊かなんですね。
そうなんです。マンションを出ると、毎日違う景色が見られます。山脈が連なり、朝早く起きると雲海が見えます。夕日も綺麗で、雨の日や曇りの日も不思議な景色が楽しめます。最高の場所です。
他の住んできた場所と比べても、一番自分に合う場所だと感じています。実家も高知にあり、祖父母も宮城から移住してきました。一族みんなで高知に住んでいます。家族全員が高知を愛しています。
「高知の県民性」というのはありますか。
新しいもの好きで、ユーモアがあります。ダジャレやギャグが大好きで、お節介焼きなところもありますね。高知ではみんなが家族のように接するという「高知家」という言葉があるくらいです。たとえば、街で会えば「おお!」と自然に声をかけ合います。特に「ひろめ市場」という日本で初めてのフードコートと言われる場所が象徴的です。そこで食事をしていると、見知らぬ人が隣に座って会話が始まるんです。
ブランドが知られるようになった大きなきっかけも、高知ならではの「よさこい祭り」にあるとうかがいました。
はい、よさこい祭りが僕のブランドが大ヒットするきっかけでした。よさこい祭りの期間中、高知大丸の1階で初めて販売させてもらえたんです。最高の場所を提供していただきました。
最初は当然誰にも知られていないので売れませんでした。ですが、たまたまノンスタイルの石田さんが司会をしていて、友人が石田さんが来ていると教えてくれたので、声をかけたんです。収録の合間に「高知の財布です、どうぞ」と渡したら「ありがとう」と言ってくれて、翌日にはSNSで投稿してくださり、一気にバズりました。
翌日には女子高生たちが「まだありますか?」と殺到し、ネット注文も2,000件以上入りました。1年目で約25,000個売れました。また、メディアでも『目覚ましテレビ』や『ZIP!』などが報じてくれました。注文通知が止まらず、ネットショップの運営会社も驚いていました。本当に信じられない出来事でした。
千夜一夜物語のように、一気に状況が変わったわけですね。
非現実的だなと感じましたよ。夢を見ているような気持ちで、逆に怖さもありました。これまでそんな経験はなかったので、出荷が間に合わないかもしれないと不安になりました。製造から発送まで、すべて自分で行っていましたし、メールの問い合わせも2,000件以上溜まっていました。処理しきれずノイローゼ気味になり、もうやめたいと思うほどでした。
翌年の税金もすごい額で、まだ法人化していなかったので、負担が大きかったです。高知県庁の企業相談窓口など、いろいろな方に相談して、結果的に大学時代の友人が助けてくれました。
それだけ注目を浴びると、生活や姿勢が一変してしまう方もいるかと思います。ご自身を振り返ると、その時どんなことを考えておられましたか。
確かに取材が増えて、テレビや新聞、雑誌にも毎月取り上げられていました。しかし、これは一時的なものだと思っていました。一発屋になるだろうと考えていたので、工場を拡大するなどの挑戦はしませんでした。
周囲からはここで挑戦しないとと言われましたが、ここは慎重に行きました。会社を大きくすることに注力して、高知愛が薄れては本末転倒だと思ったからです。アートは自分の表現したいものを作ることですが、それが歪んでしまうと本来のものではなくなります。品質も落とさず、常に最高のものを提供したいと考えていました。
素晴らしいバランス感覚で、アートや高知愛を発信し続けられたのですね。
心の内と外、それぞれの広い世界を見つめて
発明家として、異なるジャンルで成果を出すための発想の転換や着想の瞬間について教えてください。
アイデアは寝る前やお風呂に入っている時、または単調な作業中に浮かびます。例えば校長先生の話を聞いている間、空想の世界に入り込むことがあります。その時、全く別のことを考えていると突然ひらめくんです。ただ、そのためには事前にいろいろな知識を吸収しておく必要があります。
課題解決のためにそのことだけに集中しすぎると、ありきたりな結論に至りがちです。そこで、関係ないことを調べることも重要です。
小さい頃からそのような思考が好きだったのですか。
中学2年生のときにADHDという診断を受けていますが、その特性も影響していると思います。空想に入るのが自然なんです。逆に普通の人のように淡々と物事を進めようとすると大変で、発想力が失われる気がします。ですから、今の自分の特性を大切にしています。
周囲に比べて注意散漫なところがあったと思いますが、それが発想の転換にも役立っています。集中すべき時は一気に集中し、普段は注意を他に散らす。このバランスが自分にとっては重要です。
化粧水を開発する時も、世界中から集めた900種類の原料を研究しました。コロナ禍で時間があったこともあり、論文や成分図鑑を広げ、原料を五感で試しました。こうして最高の化粧水を生み出しました。外注はせず、全て自分で処方開発しています。研究機関に足を運び、製造方法まで学びました。そこまでやるプロデューサーは、正直少ないと思います。
こだわり抜いた開発ですね。現在の事業について、今後の展開はどのように考えておられますか。
高知の財布は、世界中の人に「高知の柄」として認識されるブランドに育てることを目標にしています。化粧品分野では、入浴剤や歯磨き粉まで、敏感肌の方にも安心して使える製品を開発したいです。そしてカードについては、高知のゆるキャラをデジタルカードに収めることで、ポケモンカードのようにコレクションする楽しみを提供していく予定です。
カードはAR機能でキャラクターが出現するのですよね。すごい発明です。
カードには電子チップが内蔵されていて、スマホにかざすと3Dキャラクターが現れます。これがあれば、どこでもゆるキャラと一緒に過ごせます。高知の魅力をより多くの人に知ってもらい、実際に訪れてもらえるようにしたいですね。
コンテンツのために新しく作ったキャラクターではなく、各役場のキャラクターに許可をいただいて、3D化しています。それまでイラストでしかなかったキャラクターたちが、3Dに変換して世界に飛び出してきます。「しんじょうくん」というキャラクターのカードは、キラバージョンや通常バージョンなどもあり、レアカードを集める楽しさもあります。
3D化によって、既存の高知の資源が、さらに魅力が増すわけですね。
高知の文化をカードを通して広げていけるのも魅力です。また、この技術自体は世界的にも珍しく、東京でも興味を持ってもらえると思います。最初、東京で発表した時は「実績があるのか?」と疑問視されましたが、高知で実績を積んでから、全国へ展開しようと考えています。高知空港でもイベントを行い、地元のゆるキャラが登場するなど、地域活性化につなげています。将来的には、ポケモンとのコラボも進めており、ポケモンと高知がコラボしたカードを作る予定です。
コラボが実現すれば、世界中のポケモンファンに高知の魅力を知ってもらえることになりますね。
ええ。高知を盛り上げるために、どんどん進めていきたいと思っています。私1人でできる範囲に限界はありますが、将来的にはより多くのメンバーと資金を集めて、さらに大きな目標に挑戦していきたいです。
東京に来てから、最先端の経営や投資に関する考え方を学びました。テクノロジーの先駆者との交流も自分の意識が大きく変わる経験でした。人とのつながりがとても重要だと感じましたし、これからのチャンスも見えてきました。運命的に出会った人たちと一緒に、さらに前進できると感じていまし、これからもたくさんの人と出会っていきたいと思っています。
最後に、「高知愛」をこれからどのように広げていくか、ビジョンをお聞かせください。
原点に還りますが、高知を思う気持ちを持ち歩けるような製品を作り、全国、そして世界中にこの場所の魅力を広げていきたいです。私が有名になれば、さらに多くの人に高知のことを話せるので、これまでの恩返しとして地域に貢献したいと思っています。
そうした拡大や活躍を見て、フリースクールの先生や後輩たちの励みになれれば嬉しいですし、そんな姿を見せられるよう、活動を続けていきたいです。
お話の中にありましたが、「思い」がこもっているものは、どんな向かい風があっても未来に繋がっていくと私も感じています。今後ますます多くの人に支援され、高知とブランドが世界に届く未来を期待しています。本日はありがとうございました。
コントリ編集部からひとこと
「地元愛」を語るとき、私たちはどこか懐かしさや郷愁に寄り添いがちです。しかし中島さんの「高知愛」には、未来を切り拓く力強さがありました。フリースクールでの経験から育まれた故郷への思いは、アラビア文字をモチーフにした斬新なデザインや、900種類もの原料研究から生まれた化粧水、ARカードの開発など、次々と具体的な形となって花開いています。
特に印象的だったのは、爆発的なヒットに直面しても「高知愛が薄れては本末転倒」と、冷静に判断されていた点です。目先の成功に惑わされず本質を見失わない姿勢は、地域ブランドの在り方に重要な示唆を与えてくれます。
取材中、中島さんは「不登校」や「ADHD」といった経験も率直に語ってくださいました。それらを「特性」として受け入れ、むしろ創造の源泉として活かしている姿勢からは、多様性を認め合う社会の希望が見えてきます。高知から世界へ―。新しい地域ブランドの可能性を、ぜひ感じ取っていただければ幸いです。
コントリ株式会社
代表取締役
飯塚 昭博
ギャラリー
プロフィール
株式会社ブランド高知
代表取締役社長
中島 匠一
大阪芸術大学芸術計画学科出身。「高知の財布」「FIRST PRO高知の化粧水」「XRカード」などの企画・開発を手掛けてきた発明家。自ら開発製造から販売までを一貫して対応できることを強みとして活動している。2022年に化粧品成分スペシャリストとして、また2023年には高知市教育委員会不登校支援推進協議会委員に任命されており、幅広く活動を展開している。アラビア文字からインスピレーションを得た独自のロゴデザインと高知愛を込めた商品開発で注目を集め、テレビや新聞など多数のメディアで取り上げられている。化粧品開発においては900種類以上の原料研究から独自の処方開発を行うなど、各分野で徹底したこだわりを持って製品開発に取り組んでいる。
会社概要
設立 | 2018年11月2日 |
資本金 | 100万円 |
所在地 | 高知県高知市北本町4-2-33-701 |
従業員数 | 2人 |
事業内容 | 財布、名刺入れ、バッグ、服飾製品、コスメ、XRカード等の企画製造販売 |
HP | https://brandkochi.jp/ |