
「人生に”とりあえず”は通じない」── ニューヨークで25年、1,000人を超える著名人にインタビューし続けた男が見てきた、経営と生き方の本質|Weekly Business News Corp.(ニューヨークビズ!)CEO 高橋克明
レコーダーを止めた瞬間、北野武氏がこちらに歩み寄ってきました。
そこから始まった15分間の立ち話が、高橋克明氏の人生を変えました。神頼みより、せっかく生きているなら生きてやるべきだ——武氏がその場で語りかけてきた言葉の趣旨は、高橋氏にとって今も「人生最大の財産」です。
12歳の七夕短冊に「将来はニューヨークでジャーナリスト」と書いた少年は、52歳のいまも現役でニューヨークに立っています。ビザも資金もないまま渡米し、母の急死を転機に覚悟を決め、1,000人を超える著名人へのインタビューを積み上げてきた男が語る「継続と本気」の哲学——。経営者として生きるすべての人に、刺さる言葉があります。
「ニューヨークの何でも屋」を名乗る男の、本当の顔
Weekly Business News Corp.の代表として、週刊邦字紙「ニューヨークビズ!」の発行を軸に、デジタルニュースサイトの運営、著名人インタビュー、講演・セミナー事業、北米進出企業のサポートやイベントコーディネートまで、複数のメディア関連事業を束ねています。
「全部メディア関連といいますか、今風に言うと『メディアコングロマリット』のような会社群です」
メディアコングロマリットとは、複数のメディア事業を傘下に持つ複合企業体を指す言葉です。もっとも、高橋氏本人はそう大げさには構えていません。
「規模はそれほど大きくはないので、言ってみたら『ニューヨークの何でも屋さん』といった感じですね」
穏やかに笑いながらそう話す高橋氏ですが、ニューヨーク州マンハッタンに拠点を置き、今年でちょうど渡米25年目を迎えます。「ちょうど私が52歳なので、人生の半分をニューヨークで過ごしてきた計算になります」——その言葉の裏には、「何でも屋」という謙遜では到底語りきれない、四半世紀の重みが滲んでいます。
12歳の夢を、52歳のいま生きている
高橋氏のニューヨークへの夢は、気の遠くなるほど昔に始まっています。12歳のとき、七夕の短冊にこう書いたといいます。
「『将来はニューヨークでジャーナリスト』と。今でも証拠の写真があるんですが」
その夢の種を育てた土壌には、幼少期に出会った2人の「兄貴」の存在がありました。
5歳上の実兄は、クラスで一番勉強ができる学級委員長タイプ。全学年5位になったときに「初めてベスト3を逃した」と号泣するほど優秀な人物でした。一方、2歳上のいとこは隣の長屋に住んでほぼ毎日顔を合わせる、実質的な「2番目の兄貴」。こちらは町で一番の暴走族のリーダーで、裏社会からもスカウトされるほど喧嘩が強く、辰吉丈一郎さんとタイマンを張ったという逸話を今でも語り継ぐほどの人物でした。
正反対の2人に育てられた高橋氏は、やがてこう気づきます。
「『学級委員長』と『特攻隊長』という2人の兄貴に育てられたわけです。両方に接していて、『どちらかに偏るのはダサい』と思うようになって」
そして生まれたのが、この信念でした。
「『特攻隊長兼学級委員長が一番かっこいいんじゃないか』と思うようになったんです」
新聞社は「インテリのブルーワーカー」とも言われます。クリエイティビティもビジネスも、どちらも諦めない——その両極を生きることへの憧れが、メディアという仕事への必然的な縁を引き寄せたのかもしれません。
中学時代、いとこの兄貴に引っ張られて「かなり悪かった」という高橋氏に、父親がさりげなく語って聞かせたのが、「矢野」という同級生の話でした。不良でありながら成績も抜群だったというその人物のエピソードが、幼い高橋氏の中に「どちらかに偏らない」というバランス感覚を、静かに根付かせていきました。
「紙は終わり」と言われ続けた25年── それでも伸び続けたのはなぜか
2003年、高橋氏は「DAILY SUN NY」を創刊します。しかし、そのタイミングですでに「紙媒体は終わりだ」という声が業界に溢れていました。
それでも高橋氏は、ニューヨークという市場の特殊性に可能性を見ていました。アメリカのニュースはネットで取れる、日本のニュースもネットで取れる。しかし「アメリカの日系社会のニュース」となると話が変わります。個人のブログベースになってしまい、オフィシャルな新聞社が届ける情報がなかなか手に入らない。だからこそ、紙媒体にまだ十分な需要があったのです。
「日本とニューヨークでは市場が全然違って、向こうでは紙媒体でもガンガンいけたんですね」
その後、2010年には新たな転機が訪れます。1973年創刊——高橋氏自身と同じ年に生まれ、50年以上の歴史を持つ「週刊ビジネスニュース」をバイアウトし、「ニューヨークビズ!」として再出発させたのです。名前が変わったことで、読者の反応を心配する声もありました。しかし現地の日系人会やジャパンクラブの方々から、こんな言葉が届きました。
「名前は変わったのに、やる人間によってこんなに変わるんですか」
その言葉が、高橋氏にとって大きな自信となりました。
ビジネスモデルは広告収入100%のフリーペーパー形式。ニューヨークの駐在員や日系人をつなぐロータリークラブ、県人会——そうしたコミュニティの接着剤として、紙の新聞はその存在意義を確立していきました。
そしてキラーコンテンツとなったのが、著名人インタビューのコーナーです。これを真似しようとした媒体がいくつか現れましたが、高橋氏は動じませんでした。
「内容を読み比べてもらえると、やはり差が出る。ラッキーだと思いました」
25年間で積み上げた1,000人超というインタビュー実績は、容易に越えられる城壁ではなかったのです。

1,000人のインタビューが教えてくれたこと── 北野武の「15分」
インタビュー1人目はアグネス・チャンさん。「何を聞くの?」と言いながら素人状態で臨んだその初回から、1,000人を超えるキャリアが始まりました。2人目はプロ格闘家のジョシュ・バーネット氏、その後も今井雅之さん、風間杜夫さんと続き、月に一度はニューヨークを訪れる日本の著名人へのインタビューが積み重なっていきました。
転機となったのは、7人目のインタビュー——今は亡き中村勘三郎さんとの対話を終えた直後のことです。マンハッタン57丁目と6番街の交差点、赤信号の中で、高橋氏は思わず声を上げてしまいました。
「この仕事って、とんでもなくラッキーじゃないか、と」
テニス専門誌ならテニスプレーヤーしか取材できない。芸術専門誌ならアーティストだけ。しかし一般誌であるがゆえに、各業界のトップと話せる。高橋氏はそれを、こう表現しました。
「職権乱用でいろんなことを聞けるじゃないか、と気づいたんです」
歴史上の偉人の名言ではなく、現在進行系のトップたちの言葉を直接聞ける——「現代版ナポレオン・ヒル」と直感したその日から、赤と黒の手帳を持ち歩き、必ず「人生の秘訣は」「成功法則は」という質問を一対一のインタビューで問いかける習慣が始まりました。
そして12年ほど前、北野武氏との時間が訪れます。
テレビ朝日のタレントロビーで武さんが現れたとき、挨拶した瞬間に「空気が全然違った」と高橋氏は振り返ります。インタビュー中は優しかった武さんが、「ありがとうございました」とレコーダーを止めた瞬間、ツツツとこちらに歩み寄り、世間話を始めてくれました。
そこから15分間の立ち話が始まります。「品格について」「何かをスタートするときの気持ちについて」「人生そのものについて」——この三つのテーマで語ってくれた言葉は、今も高橋氏の大切な財産として残っています。
高橋氏が「もし芸人になっていなかったら何になりたかったですか?」と聞くと、武さんは数学者や野球選手への夢を語り始めました。しかし最後に少し寂しそうな顔をして、こう言ったのです。
「いい時もあって悪い時もある……今と変わらないよね」
どの人生を選んでいても、幸福度はそれほど変わらない——。その言葉が刺さった理由を、高橋氏はこう説明します。
「インフルエンサーとかに言われてもピンと来ないけど、武さんがそこまで生き抜いてきた上でのメッセージだから、刺さる」
その出会い以降、高橋氏はどんな大物と会っても緊張しなくなったといいます。メキシコ大統領も、トランプ大統領も、武さんの後ではひとりの人間として向き合えるようになっていました。
折れなかったのではなく、折れる余裕もなかった── 崖っぷちの哲学
グリーンカードなしで経営していた時期、赤字になった瞬間にすべてが終わる——そういう状況が日常でした。モチベーションや意欲という話ではなく、逃げ場のない環境そのものが前に進む原動力だったのです。
「私がニューヨークでやってこられたのは、いつも崖っぷちに置かれていたからで」
そう話す高橋氏が、続けてこう笑います。
「正直、怠け者だから崖っぷちに追い込まれないと頑張れないんです」
現在は早稲田大学の現役学生でもあるという高橋氏。新聞社の毎週の締め切りに加え、レポートの締め切りまで重なり、「締め切りだらけで麻痺している」という状態が続いています。それでも止まらないのは、外から課せられた締め切りが、怠け者を自認する自分を動かし続ける仕組みになっているからだといいます。
「余裕ができると、考えすぎてしまう。これは何のためにやっているんだろう、と思い始めたらできなくなってしまうかもしれない」

母の死があったから、今がある── 人生最大の転機
高橋氏の人生には、ひとつの大きな断絶があります。
2000年、ビザもない状態でニューヨークに渡り、1年後には「DAILY SUN NY」の前身となる新聞社を立ち上げていた高橋氏。しかし渡米からちょうど1年後、母が急死します。葬式のために帰国すると、年老いた父と、病気を抱えた兄が目の前にいました。「これでニューヨークの夢は終わったのかな」——ふたりの面倒を見るために日本に残ろうと、覚悟を固めかけていました。
ところが、母が入院していた病院に挨拶に訪れたとき、恰幅の良い看護師さんが声をかけてきました。
「あなた、高橋さんの息子さんでしょう。そっくり。お母さん、自慢してたわよ。息子はニューヨークで働いているって」
実際はインターンで、ビザもなく、自慢できることなど何もありませんでした。それでも母は、自慢していた。その言葉が、高橋氏の足を止めさせませんでした。
そしてそのとき、父が生前の母の事実を明かします。母は闘病中でした。それでも、ビザの申請途中だった息子が一度帰国したら再入国できなくなると思って、会いたかったのをずっと黙って我慢していたのです。
息子がニューヨークの夢を手放して自分たちの面倒を見ようとしていることを、見抜いていたのでしょう。その事実を明かしながら、父は重い口調でこう言いました。
「お前、こんなことで帰ってくるな」
そして続けます。
「お前のビザのために、会いたかったのを我慢したんだ。それで帰ってくるな」
その言葉が、高橋氏を2度目のニューヨークへと押し出しました。
2度目の渡米は、1度目とはまったく異なる覚悟でした。飛行機からマンハッタンを見たとき、「成功するか死ぬか」という気持ちだったと高橋氏は振り返ります。29歳のそのとき。そこから半年後には、社長になっていました。
「すごくキザなセリフですが」と前置きしながら、高橋氏はこう話します。
「母を亡くしたことで、私の生き方が変わったのかな、という気がします。母が生きていたら今の自分はなかったと思う」
インタビューで「お母さんに今の姿を見せたいでしょう」とよく問われる高橋氏ですが、それはパラドックスでもある——母の死があったからこそ、今がある、と。
「とりあえず」は人生では通じない── 若者の背中を押す、次の夢
「いつか起業したい」「今は準備中」——そう言い続けたまま、なかなか踏み出せない人は少なくありません。高橋氏はそういった状況を、こう笑い飛ばします。
「起業準備中って、ずっとダイエット中と同じですよ」
その言葉の奥には、身をもって体験してきた人間の真実があります。ニューヨークの展望台のガラス板の上に立ったとき、「とりあえずちょっと飛び出してみたい、すぐ戻ってくるから」と思ったけれど、当然できなかった。それと同じように、「とりあえず生きる」も本当はできないはずだ——高橋氏はそう言い切ります。
「人生、本番と練習に分けることはできない。とりあえず、は人生では通じない」
「いつかオーロラを見たい」「いつか子供と温泉に行こう」「いつかこの車に乗ろう」——そういう「いつか」は、もしかしたら永遠に来ないかもしれない。経済的な事情があってすぐには難しくても、心の中で「いつか」だけになっていると、そのいつかは来ないことが多い、と高橋氏は静かに語ります。
そして今、高橋氏が力を注いでいるのが、全国の中学・高校を巡る講演活動です。公立高校には費用の問題で呼んでもらえないため、大人向けの有償講演で収益を得て、その分を公立校での無償講演に充てるというモデルで続けています。その原点にあるのは、自らの後悔です。
「ニューヨークに行くと決めたとき、周りの全員に反対されたんです。誰も賛成してくれなかった。あのとき、誰か1人でも背中を押してくれていたら、どれほど助かっただろうかと思うんです」
世界を見ることで、自分の本当にやりたいことが浮き彫りになる。島国で単一民族・単一宗教・単一言語の日本というのは、世界的には実はとても個性的で珍しい存在だ——そういう視点を若い人に伝えたい。あのとき誰も押してくれなかった自分が、今の若い世代に語りかける。その円環が閉じるとき、高橋氏の25年間の旅は、また新たな意味を帯びてきます。
コントリより
12歳の七夕短冊に書いた夢を、52歳のいま現実として生きている——高橋克明氏の物語は、経営とは何か、継続とは何かを、静かに、しかし力強く問いかけます。崖っぷちに立ち続けた25年は、「モチベーション」という言葉では到底語れない凄みを持っていました。北野武氏の言葉が刻まれた赤と黒の手帳、母の死が変えた覚悟の質、そして今も全国の若者の背中を押し続ける活動——どれひとつとっても、「とりあえず」では辿り着けない場所にあります。あなたの「いつか」を、今日から「今」に変える勇気を、高橋氏の言葉がそっと後押ししてくれるはずです。
取材・文:コントリ編集部
インタビュー実施日:2026年4月8日
場所:SUZU CAFE 六本木
プロフィール

高橋克明(たかはし よしあき)
Weekly Business News Corp.
代表取締役社長
ニューヨークビズ!発行人・インタビュアー
1973年、岡山県玉野市生まれ。専門学校講師を経て、2000年に単身ニューヨークへ渡米。2003年、ニューヨーク史上初の日刊無料紙「DAILY SUN NY」を創刊。2010年、米国内最古の邦字紙「週刊ビジネスニュース」を買収し「ニューヨークビズ!」として再出発。インタビュアーとして政治家・ハリウッドスター・アーティストなど1,000人以上を取材。全国の高校・大学での講演活動も精力的に行う。
ニューヨークビズ!:https://nybiz.nyc/
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