
「プリンは命のお菓子」——孤独な少年を救った一皿を、世界の“捨てられる命”を救う製法へ|国際プリン協会 りゅうへいさん
「プリンって、命のお菓子なんですよ」——。
東京・板橋のプリンサロンでそう語るのは、一般社団法人国際プリン協会 会長の濱口竜平さん。「プリンのりゅうへい」の名で知られ、プリン歴24年。4万種以上を試作し、全国40種以上のご当地プリンの開発に携わってきました。
震災で店をすべて失っても、プリンを手放さなかったのはなぜか。「自分自身の棚卸しも兼ねて、なるべく全部伝えようと思っています」と語り始めたりゅうへいさんの半生と、プリンに懸ける経営哲学に迫ります。
風邪の日の「プリン作ったよ」——6歳から“ほぼ一人暮らし”だった少年の原点
りゅうへいさんの母は、仙台のクラブで働く売れっ子のホステスでした。料理も着物もお茶もお花もこなし、先生の免状まで持つ人だったそうです。父には別の家庭がありました。「産むことだけ認めてほしい。私が自分で育てるから」と言って、母は27歳でりゅうへいさんを産みます。
仕事を続けるため、母はりゅうへいさんを民間の施設に預けました。6歳まで、母に会えるのはたまの日曜日だけ。「お母さんの愛情には飢えていたと思います」と、りゅうへいさんは振り返ります。
小学校に入る年、母は小料理屋を開き、ようやく一緒に暮らせるようになります。ところが母は午後には店へ出てしまいます。
「6歳から11歳くらいまで、実質一人暮らしです。ピカピカの1年生がランドセルをしょって帰ってきて、自分で鍵を開ける。お母さんが作っておいてくれたカレーを温めて食べて、石油ストーブにマッチで火をつけて、一人でお風呂に入って寝る」
寂しさを母に打ち明けたことは一度もありません。泣き言を言ったら、また施設に戻されてしまう。そう思っていたからです。
そんなある日、りゅうへいさんは風邪で学校を休みます。すると母が、平日なのに仕事を休んでくれました。いつもは忙しくてあまり話を聞いてくれない母が、その日はずっとそばにいて、好きなご飯を作ってくれた。夜、布団に入ろうとしたとき、引き戸が開きました。
「『竜平、お母さん、プリン作ったよ』って。スプーンですくって「あーん」と食べさせてくれて。もう嬉しくて嬉しくて」
りゅうへいさんは、こう言葉を継ぎます。
「味というより、そのシチュエーションなんです。母に優しくしてもらった、心の嬉しい思い出の最頂点にあったのがプリンだった」
小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「プリン屋さん」でした。大人になって母に聞くと、「たぶん忙しかったから、ハウスのプリンミックスだったと思うよ」と笑われたそうです。「でも、僕にとってはそこじゃなかったんでしょうね。お母さんといられる嬉しさの象徴が、プリンだったんです」

「生まれて初めて、必要とされた」——いじめを越えて見つけた“誰かのため”という喜び
授業参観の日、教室の入口に貼られた名簿には、りゅうへいさんの欄だけ父親の名前がありませんでした。当時、クラスで母子家庭は自分だけ。父の転勤に母子もついて行ったため、小学校を4校、中学校を2校移ったことも重なり、幼稚園から中学校まで、ずっといじめを経験します。
国語の授業で『雨ニモマケズ』を一度も噛まずに読み終えて座ると、椅子に画鋲が敷き詰められていたこともありました。「悲鳴を上げたり泣いたりしたら、また格好の笑いのネタになる。だからずっと我慢してた。でも顔を上げられなくて、ずっと耐えてて」
支えは、母と離れたくない気持ちと、TVや本やゲームの世界でした。今は、あの時期をこう捉え直しています。
「人間って慣れる生き物じゃないですか。大きな挫折や失敗があっても、それがその人を太く、強くしているはずなんです」
12歳のころ、両親が籍を入れ、初めて「家族」がそろいました。先輩のいない新設高校を選んで「高校デビュー」を果たすと、急に伸びた背と、転校で鍛えられた度胸でクラスの中心に。「15歳から18歳の3年間は、初めてものすごくキラキラしていました」
人生を決めたのは、18歳で出会ったYMCAのキャンプリーダーの仕事です。5、6人の子どもたちと3泊4日を過ごすなかで、涙目で「友だちが膝をケガした、どうしよう」と駆け寄ってくる子がいて、カブトムシを見つけると真っ先に見せに来る子がいました。
「生まれて初めて、子どもたちが、人間が、僕のことをすごく必要としてくれた。僕にもそういう価値があるんだって。そこから、誰かのために何かをやることがすごく好きになっちゃったんです」
普通は数年で卒業するリーダーを、りゅうへいさんは30歳を過ぎるまで15年ほど続けました。その後、母のすすめでツアーコンダクターになりますが、大手旅行会社からの誘いは断ります。「とにかく家族を作って、家族と一緒に過ごしたかったんです」
25歳でMDRT、同じ年に失ったもの——「俺が絶対お前を守る」の一言
ホテルのオープニングスタッフとして宴会を担当していた22歳のとき、りゅうへいさんは外資系の保険会社にスカウトされます。「25歳以上」「大卒」など5つの入社条件を1つも満たしていませんでしたが、23歳で特例として入社。そこで生涯の師となる上司、伏見さんに出会いました。
伏見さんの教えだけを聞いて働いたりゅうへいさんは、25歳で保険営業の世界的な組織MDRTの会員になります。本人によれば社内でも日本でも世界でも最年少。契約の9割近くが紹介で、飛び込み営業もテレアポも一度もしたことがなかったと言います。秘訣は、話を聞いてもらう前に「良かったと思ったら、大切な人を3人紹介してください」と約束してもらうこと。「お願いじゃなくて、『ご自身が僕にした約束を、経営者として守ってください』と言うんです」
ところが、その25歳の夏、りゅうへいさんは父を突然亡くします。自ら命を絶ったのでした。救急車よりもパトカーよりも早く駆けつけてくれたのは、伏見さんでした。
「『竜平、これからいろんなことがあると思うけど、俺が絶対お前のことを守るから、お前は俺だけ見てついてこい』って。それまで冷静だったのに、そのときだけ堰を切ったように泣いちゃって」
葬儀の手配も親戚への対応も、伏見さんが引き受けてくれました。同じ年、20歳から5年間交際し、結婚するつもりだった恋人との別れも重なります。26歳からは成績が落ち込み、円形脱毛症になり、自律神経失調症で会社を休むことになりました。
「誰よりも会社に行くのが好きだったのに。仕事中も、母が自分で何かしてしまうんじゃないかと気になって仕方なかった」
6年半ほど勤めた会社を去るとき、伏見さんはこう言いました。「俺とたもとを分かつってことは、縁を切るってことだ。二度と俺の前に現れるなよ」

間口90センチの店から——「馬鹿げてる」と言われても、いいものをいいまま使う理由
30歳で、りゅうへいさんは子どものころの夢に戻ります。YMCAで知った「誰かのために」を、今度は大好きなプリンで。前職を辞め、株式会社ぷりんを創業しました。背中を押したのは、有名メーカーのプリンと自作のプリンを170人以上に食べ比べてもらい、メーカーを選んだ人が数人しかいなかったことでした。
1号店は間口90センチ、小窓60センチの「街のタバコ屋みたいな店」。洋菓子店での修行は0日です。「プリンしか作れないから、僕じゃなくても作れるように、再現性をとにかく意識しました」。店は仙台に2店、盛岡に1店の計3店舗まで増え、わずか1.5坪の盛岡店では、月に約200万円を売り上げたこともあります。
素材には、最初から良い卵と良い牛乳を選びました。洋菓子の先輩からは「そんな卵、そんな牛乳を使うのは馬鹿げてるからやめろ」と言われます。原価は高いのに、値段はほかの店と同じ。揺れたこともあったと認めながら、りゅうへいさんは言い切ります。
「僕は『いいものをいいまま使う』を選びました。もともとのルーツが『好きなことを仕事にしたい』『誰かに喜んでもらいたい』で、『儲けたい』が最初に来ていないから。初心って、何をやるときもピュアでいいですよね」
仙台駅の催事でプリンを売っていたある日、通りかかったのは伏見さんでした。「頑張ってるんだなあ。今、在庫は何個あるんだ」と聞かれ、ショーケースに残っている大量の在庫数を伝えると、「全部持ってこい」。
届けに行くと、伏見さんは事務所のみんなの前で、りゅうへいさんをこう紹介しました。「今まで見てきた部下の中で、こいつが一番印象に残っているやつだ」
「今思い出しても泣いちゃうんですけど」と前置きして、りゅうへいさんは続けます。「二度と現れるなって言った人が、みんなの前でそう言ってくれた。この人についてきてよかったと思ったし、僕は一生プリンに捧げるぞって決めたんです」

50カ所以上の現場で知った「命のお菓子」の意味
話は開業のころにさかのぼります。素材にこだわる原点は、世界最高峰の洋菓子学校をトップクラスで出たというパティシエに言われた「プロはプリン屋なんてやらない」という一言でした。
「プリンは技術で差がつかない。いい卵、いい牛乳、いい砂糖をりゅうへいさんが使ったら、僕よりりゅうへいさんのプリンの方が美味しくなっちゃうよ、と言われて。じゃあいい材料を知ればいいじゃん、と思ったんです」
りゅうへいさんは養鶏場と牧場を訪ね歩くようになり、それぞれ50カ所以上、北は北海道、南は沖縄まで足を運びました。初めて入ったケージ飼いの鶏舎では、まともに息さえできないほどの糞尿の臭いと、A3用紙1枚ほどのケージに2羽の鶏が入れられ、目も血走り、羽も抜けていました。「絶望感を覚えました」。一方、土の上を走り回る平飼いの鶏は人の方に寄ってきました。「イメージのニワトリって、これだったんだと思いました」
「ケージ飼いの人は、ニワトリをコピー用紙だと思っている。平飼いの人の中には、ニワトリに『おはよう』って声をかける人がいるんです。杖をついたおじいちゃんが目の前に来たら、つい席を譲るでしょう。でも、見なきゃその気持ちは起こらない。僕は見ちゃったから、こうなったんだと思います」
現場を知るほど、プリンの見え方は変わっていきました。
「牛乳はメスの母乳で、赤ちゃんを育てるための一番のエナジードリンク。卵も、メスが命を削って出した命そのもの。だからプリンって、命のお菓子なんですよ。僕らも、過去にさかのぼっても一例の例外もなく、全員女性から生まれているわけでしょう。だから、女性や母性を象徴するお菓子なんです」
養鶏場では毎日約5%の卵が、殻が薄いといった理由で捨てられています。牧場でバターやチーズを作るときに出るホエーやバターミルクも同じです。「もったいないじゃないですか。だから、それをプリン化するんです」
取材の終盤、牧場の写真を見せながら、りゅうへいさんはこう続けました。
「僕がこんなに『プリン、プリン』と言って没頭しているのは、そういう現状を知ったり見たりしたことや、今日話したような生い立ちの境遇がそうさせているというか。『プリン屋さんやってます』というノリとは相当違うんです」
風邪の夜、母が「あーん」と差し出してくれた一皿。その主な材料もまた、メスたちからいただいた命でした。

震災で全店閉店——「ウィンウィンではなく、ハッピーハッピー」で開いたノウハウの扉
2011年、39歳のときに東日本大震災が起こり、りゅうへいさんは3店舗をすべて閉じました。震災の5日後からは復興支援団体の事務局長として現場に立ち、1年半ほど活動を続けます。その経験が、経営の考え方を根本から変えました。
「勝ち続けるなんて無理じゃないですか。以前は僕も『ウィンウィンでいきましょう』と言って、社員を増やす、店を増やすという考えでした。でも冷静に考えたら、ウィン(勝ち)があるならルーズ(負け)もどこかにいるわけでしょう。人間は、勝つためじゃなくて、幸せになるために生まれてきたはずなんです。だから僕は、ハッピーハッピーがいい。社員も家族も、取引先も、食べた人も、みんなにハッピーが広がっていく方がいいでしょう」
会社を畳んだあと、養鶏場や牧場を巡る旅の途中、青森で「作り方を教えてほしい」という人と出会い、その方が運営する飲食店に住み込み、プリン店を一緒に始めました。その店は今、地元で驚かれるほど大きく育っているそうです。
苦労して作り上げたノウハウを教えることに、抵抗は「全くなかった」と答えます。
「レシピと製法は違うんですよ。だし巻き卵で言えば、醤油を小さじ1杯入れるか大さじ1杯入れるか、砂糖や塩を入れるか、がレシピ。卵液を焼いてくるくる巻くのが製法です。レシピは自由でいい。僕が伝えているのは製法なんです」
教え始めて15年以上。当初は世界を見渡しても、同じ作り方をしている人は見つからなかったと言います。

コントリでは、想いある経営者のインタビューを無料で掲載しています。あなたの会社の話も、聞かせてください。
「僕の名前なんかどうでもいい」——PR製法とサンクスライフデーで、命を捨てない世界へ
「PR製法」と名付けたその作り方は、一人で60分に60個を作れ、無添加でも冷蔵で20日以上もちます。今はプリンコンサルタントとして各地の事業者と組み、その土地の牛乳と卵と地域の食材を使って、この製法でご当地プリンを生み出しています。協会会長としての役割を、本人は「世界中のプリンの営業マン」と表現します。
「ケーキ屋さんでは、プリンを含むケーキの4%から10%前後が売れ残って捨てられています。捨てるということは、命を捨てているのと同じなんです」
PR製法なら味もレシピも変えずに20日もつので、捨てずに済むのです。
「僕の名前なんかどうでもいいんです。この製法が当たり前になって、パティシエじゃなくても誰でも簡単に、たくさん作れて、日持ちする。それをスタンダードにするのが、僕の生涯のミッションです」
もう一つ、広めたいものがあります。11月23日の勤労感謝の日を「サンクスライフデー」とした記念日で、2021年に一般社団法人日本記念日協会に正式登録されました。自分の食を支えてくれる人に年に一度、プリンを添えて「いつもありがとう」を伝える日にしたいのだそうです。
「コンビニで買ったプリンを、毎朝いる店員さんに『いつもありがとう』って渡したら、めっちゃびっくりするじゃないですか。百パーセント嬉しいでしょう」
撮影で見せてくれたポーズは、ハッピーとピースを合わせた「ハッピース」。「三」という数字には「家族の最小単位は3人」という意味も込めているそうです。「僕も3人家族です」。
話は母のことに戻ります。この1年のうちに、りゅうへいさんは友人に背中を押され、初めて母に子どものころの話をしました。仕事のついでではなく、母に会うためだけに実家へ帰ったのは、それが初めてだったと言います。
あんなに長い期間いじめられていたのに、りゅうへいさんが話をしなかったので、母は「知らなかった」と答えました。
「僕の一番の根っこには親孝行があるんです。親孝行っていうのは、プリンでみんなに喜んでもらって、ちゃんと成功すること。小さいころから、ずっと」
「誰かに喜んでもらいたい」という初心の、いちばん最初の「誰か」は、母だったのでしょう。

コントリからのメッセージ
印象に残るのは「命のお菓子」という言葉です。母に大切にされた一夜の記憶と、メスたちからいただく命。その二つが一個のプリンの中で重なっているから、りゅうへいさんは高い素材を選び、製法を惜しまず教え、捨てられる命を減らそうとします。比喩ではなく、経営そのものでした。
撮影で見せてくれたハッピースのポーズにも、その人柄がそのまま表れていました。ご当地プリンを作りたい方、捨てている素材の生かし方に悩んでいる方は、ぜひ一度りゅうへいさんの話を聞いてみてください。プリンの見え方が、きっと変わるはずです。
あなたの会社にも、
まだ言葉にしていない物語があります。
コントリは「ご縁でつながる」経営者インタビューメディアです。売上や規模でランク付けはしません。なぜこの事業を選んだのか、どんな失敗を越えてきたのか——数字の裏にある“人”を、プロの聞き手が引き出し、5,000字の記事に仕立てます。
- 取材費・掲載費は一切かかりません(応募フォームは5分で完了)
- お願いするのは事前ヒアリングと取材の60〜90分だけ。準備は不要です
- 完成した記事は採用サイト・SNS・営業資料に自由にお使いいただけます
プロフィール

一般社団法人国際プリン協会
会長
濱口 竜平(はまぐち りゅうへい)
1972年、宮城県生まれ。愛称は「プリンのりゅうへい」。幼いころ、風邪の夜に母が作ってくれたプリンが原点となる。YMCAのキャンプリーダー、添乗員、ホテル勤務を経て、23歳で外資系保険会社に特例入社し、25歳でMDRT会員となる。30歳でプリン専門店を創業し、仙台・盛岡で3店舗を展開するが、2011年の東日本大震災で全店を閉店。現在はプリンコンサルタントとして、短時間で大量に作れ、無添加で冷蔵20日以上もつ「PR製法」を各地に伝える。年間600個以上のプリンを食べ、4万種以上を試作。全国40種以上のご当地プリン開発に携わり、記念日「サンクスライフデー」の普及に取り組む。『マツコの知らない世界』をはじめ、メディア出演は30回以上。3人家族。モットーは「My life is purin.」。
ギャラリー
















会社概要
| 団体名 | 一般社団法人国際プリン協会 |
| 代表者 | 会長 濱口 竜平 |
| 設立 | 2021年(令和3年)4月5日 |
| 事業内容 | ①プリンの啓蒙・普及活動(サンクスライフデーの普及など)②プリンコンサルティング(PR製法の指導、コンセプト設計、商品開発、食材選定、価格設定、プロモーション、運営支援)③ご当地プリンの開発支援 |
| Webサイト | https://purinkyoukai.jp/ |
| オンラインショップ | https://purintein.base.shop/ |
| YouTube | https://youtube.com/@purinnoryuhey |
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