「君の人生だから、君が決めなさい」——好条件のスカウトを断り、他人の会社を継いだ整備士の選択

「たくさんの選択肢はあると思う。君の人生だから、君が生きたいような選択をしなさい」——。

継ぐつもりで戻ってきたはずの会社で、先代からそう告げられたとき、登坂耕也氏の心は決まりました。株式会社磯田オート(茨城県つくば市・従業員14人・売上2.3億円)の代表取締役。血のつながらない先代から会社を受け継ぎ、「第二創業した」と胸を張って言える46歳の経営者です。社名の「磯田」と、代表の姓「登坂」。この一致しない二つの名前の間には、一人の整備士が人生を懸けた事業承継の物語がありました。なぜ好条件のスカウトを断り、社名まで残して他人の会社を継いだのか。「人を大切にする経営」はどこから生まれたのか。じっくりとお話を伺いました。

つくば市の事務所で取材に応じる株式会社磯田オートの登坂耕也代表
つくば市の事務所で取材に応じる登坂耕也代表

「あんな会社を継いだって、潰れるだけだ」——反対の中にあった、静かな決意

「あんな会社を継いだって、どうせ潰れるだけだからと、散々言われましたよ」。当時を振り返り、登坂氏は少し苦笑いしながら教えてくれました。

28歳のころ、勤めていた磯田オートを「継ぎたい」と申し出たとき、周囲の反応は冷ややかなものでした。新規のお客様も入れず、既存客のわずかなリピートで細々と回していた小さな整備工場。仕事があるとは言えない会社を、わざわざ引き受けようとする若者を、周りは心配し、あるいは呆れたのです。

それでも登坂氏は継ぐと決めました。そして十数年を経た今、その決断をこう言い切ります。「今は、第二創業したと胸を張って言えます」。

反対を押し切ってまで、なぜこの会社だったのか。その答えは、登坂氏の半生をたどると見えてきます。

足だけは速かった一人っ子が、ラグビーで出会った「一人はみんなのために」

登坂氏はつくば市で生まれ育ちました。幼少期のことを尋ねると、意外な言葉が返ってきます。「今とは違って、自分から意見を言うより、人に従うタイプでした。一人っ子なので誰かと一緒にいるのは好きでしたが、目立つのは好きじゃなかったんです」。

学級委員長を一度務めたくらいで、リーダーとして前に出るタイプではなかったと言います。小・中学校ではサッカーやバスケットに打ち込み、「足だけは速くて、一番ではないけれど三番目には入るくらい」だったと、当時を懐かしむように話します。

転機は高校でした。創部したばかりのラグビー部に、一期生として飛び込んだのです。「溜まっているフラストレーションをスポーツで吐き出すような感じで、ドンピシャで当てはまった」。そのラグビーで体に刻まれた言葉が、今も登坂氏の座右の銘になっています。

「オール・フォー・ワン、ワン・フォー・オール。一人はみんなのために、みんなは一人のために。それが多分、体に染みついたんですよね」。まっすぐ前を見つめて、登坂氏は続けます。「体の大きい人は力で、細い人は機動力で、それぞれに明確な役割がある。そういう考え方が、今の仕事にもつながっている気がします」。

資格はあるが、何もできない——半年でリストラを見た22歳の原点

車の道に進んだきっかけは、決して大それたものではありませんでした。「知り合いのお兄さんが自動車整備の専門学校に行っていて、見学に行って『整備、いいな』と思ったくらいの感覚です。正直、楽な道に行った感じでした」と、照れくさそうに打ち明けてくれます。

2年間で整備士の資格を取り、つくば市の整備工場に就職。しかし、そこで登坂氏は経営の厳しさを最初に味わうことになります。景気の悪化でリストラが始まり、4人いた整備士のうち、経験豊富なベテラン2人が切られ、資格はあっても経験のない登坂氏と同期の2人だけが残されたのです。

「お客さんに何を聞かれても答えられない。経験もないのに、曖昧な仕事をしているのが怖くなって」。声のトーンを落として、当時の不安を振り返ります。入社からわずか半年で、同期とともに退職しました。

その後は人材派遣で倉庫のフォークリフトに乗りました。しかし、専門学校まで行かせてもらった資格を生かせていないことが、心に引っかかり続けます。「親に取らせてもらった資格を全く生かせずに、違う仕事をして、一緒に暮らしている。親不孝だな、申し訳ないなという気持ちでした」。

倉庫へ通う道すがら、家から近い一軒の整備工場が、いつも登坂氏の目に留まっていました。「もう一度、整備をやってみたい」。そう思って訪ねたのが、磯田オートでした。「従業員を募集していないですか」と声をかけると、ちょうど欠員が出るところで、「4月から来なさい」と。それが、登坂氏と磯田オートの出会いでした。

「君の人生だから、君が決めなさい」——スカウトを断り、社名を残した理由

念願の整備の職場に戻れた登坂氏を待っていたのは、しかし「仕事のない日々」でした。「1週間何もしない。話す相手もいないから、1週間誰とも話さないこともありました」。この時期を、登坂氏は「高校時代より、逆にこっちの方が大変でした」と表現します。ちょうど結婚して子どもも生まれ、お金が必要な時期に収入がない。動きの取れない苦しさが続きました。

それでも登坂氏は、少しずつ道を切りひらいていきます。休みの日や仕事終わりに、知り合いのつてで整備のアルバイトに出かけ、横のつながりを広げていったのです。やがて「この会社を継ぎたい」と願うようになり、26歳から28歳にかけては、他社で経験を積む「起業出向」という形で、自らの給与以外はすべて会社に入れながら、ひたすら働きました。

その働きぶりは、社外の目にも留まっていました。好条件のスカウトが、いくつも届いていたのです。出向を終えて会社に戻ると決まったとき、先代はそのことを察したうえで、登坂氏にこう告げました。

「君はいろいろ動けて、仕事もできるようになった。たくさんの選択肢はあると思う。君の人生だから、君が生きたいような選択をしなさい」。

継ぐつもりで戻ってきた登坂氏にとって、それは予想もしない言葉でした。「なんでこの人は、こんなに優しいんだろうと思ったんです」。噛みしめるように、登坂氏は言葉を選びます。「私がこの会社を継げば、この人には家賃収入がずっと入る。継続してくれた方が得なはずなのに、私の人生を優先してくれた。そのとき、お金のためではなく、この人が守ってきた会社を継ぎたいと、強く、熱く思ったんです」。

先代の前代表・磯田洋氏を、登坂氏は「血のつながっていない父親」だと語ります。もともと東京・品川区大崎にあった「磯田モータース」(本社跡地は現在「磯田ビル」)の茨城工場を受け継いだ2代目で、55歳のとき、血縁でもない登坂氏に会社を託しました。「この人のために働きたい、一生この人を大切にしたい。自分だけでなく、家族以外の誰かのために生きたいと、強く思った瞬間でした」。

だからこそ、登坂氏は社名を「磯田オート」のまま変えませんでした。その決断こそが、先代への想いを忘れないための、何よりの誓いだったのです。

震災で気づいた「ここにあったら意味がない」——トラックへの一点突破

戻ってきた登坂氏に、先代は「専務取締役」という役職を用意してくれました。名刺もパソコンもない会社で、「名刺を作りましょう」と言って名刺を刷り、それを配って回るところからのスタートでした。

会社に戻って1年ほど経ったころ、東日本大震災が起こります。この出来事が、磯田オートの方向を決定づけました。当時、数は少ないながらもトラックを預かっていた登坂氏は、その光景を前に強く思ったのです。「これから復旧作業で重機を運ぶトラックなのに、うちで預かったままだったら意味がない。このトラックが、困っている人たちを助けるんだ」。

工場でトラックの前に立つ登坂耕也代表
トラック整備を基軸に、日本の物流を足元で支える

ここから登坂氏は、「ただの整備工場ではなく、トラックを基軸にした整備工場にしよう」と腹を決めます。トラックの整備を手がける工場は当時ごくわずかで、「びっくりするくらい少なかった」と言います。借金をして工場を少しずつ改良し、大型・事業用の車両に対応できる体制を整えていきました。

年下の登坂氏が上に立つことに、職人気質のベテランたちが納得しない場面もありました。しかし、それ以上に大変だったのは「仕事を取ってくること」だったと振り返ります。「仕事がないと、投資のお金も借りられない。でも、その『仕事がない怖さ』を知れたのは、今となっては良かったと思います」。挫折の記憶さえ糧に変える——その姿勢が、日本の物流を足元で支える今の磯田オートをつくりました。

経営者のDNAはない。だから学ぶ——朝7時半の学びと「社長の器」

30歳ごろ、登坂氏は自ら望んで社長に就任します。とはいえ、経営を体系的に学んだ経験はありません。「私は起業家のDNAを継いでいるわけでも、親が社長だったわけでもない。そこを一番感じていました」。この自覚こそが、登坂氏を学びへと突き動かします。

勉強会に一人で足を運び、つくば青年会議所に入会して多くの仲間をつくり、同友会で経営理念をブラッシュアップし、朝礼で理念を唱和するようにしました。さらに、週に一度、朝7時半に希望者が集まって動画を見てシェアする「朝活」を始め、もう1年以上続けています。「センスの問題ではなく、もともとないんだから学んでいくしかない。自分の器が広がらないと、会社も広がらないし、社員も豊かにならないんです」。穏やかに、しかし確信を持った口調で、登坂氏はそう言い切ります。

組織づくりの大きな転機は、今の専務と、経理を担う女性役員が、たまたま同じ時期に加わってくれたことでした。専務はさらに信頼できる同級生を引き込み、その人物が工場長を経て取締役に。「専務が工場長に言えば、工場長がみんなをまとめてくれる。すごくいい体制になってきました」と、少し誇らしそうに笑います。

社員教育について尋ねると、登坂氏は一つのエピソードを話してくれました。前日、来社したレッカー業者が熱中症で倒れ、居合わせた社員2人が付き添ったのだそうです。翌朝の朝礼で、登坂氏はただ「よくやった」とは言いませんでした。「困っている人を助けるのは当たり前。でも、昨日の自分の行いは本当に正しかったか、適正だったか、考えてみてほしい」と問いかけたのです。「ただ見ているだけでよかったのか。一人は指示を出し、水やドライヤーを持ってくる。応急処置では指示が絶対に大事じゃないですか。仲間だったら、もっと悔やまれるよね、と」。

褒めて終わりにせず、もう一歩の選択を一緒に考える。「暑苦しくなっちゃうんですよ」と笑いながらも、その熱こそが登坂氏の教育の核にあります。

社員が生涯安心して働ける会社へ——2030年、30人の仲間と

登坂氏が今、最も大切にしているのは「従業員が生涯安心して働ける職場づくり」というビジョンです。そのために、あえて売上そのものよりも事業の規模を追うと言います。「規模を大きくしていかないと、働けるポジションを選べなくなるんです」。

ISODA AUTOの店舗外観に立つ登坂耕也代表
「ISODA AUTO」の看板を掲げる、つくば市高野の本社

現場の仕事には体力が要ります。年齢を重ねて体力が落ちたとき、接客や販売といったポジションを用意しておきたい——そう考える登坂氏のもとに、先日、57歳の元・専門学校教員が「理念に惹かれた」と応募してきました。「『ロールモデルになってください』と伝えました。みんなが『歳をとってもここで働ける』と希望を見出せる。運命だなと思いました」。嬉しそうに微笑んで、そう明かしてくれます。

掲げる目標は、2030年に従業員30名。現在の売上2.3億円・従業員14人から、着実に歩を進めています。車の販売にも力を入れますが、そのやり方は徹底して「正直」です。「基本は在庫を持たず、頼まれた新車を正直に売る。値引きは一切しません。値引きをすると、この人にはこれだけ、という不公平が生まれてしまうから」。

その根っこにあるのは、「大切な人を大切にする」という人生理念と、社員・お客様・地域へと広がる「幸せの循環」への信念です。「社員に幸せの質を上げてほしい。そうすれば心に余裕が生まれて、お客さんにいいサービスができて、それがまた会社に戻ってくる。その循環を作りたいんです」。

これから起業する人、事業を承継する人へ——最後にそう水を向けると、登坂氏は一つだけ、と前置きして力強く答えてくれました。「諦めないこと、描き続けることだと思います。自分がやりたいことを描き続けて、どんな逆境でも諦めない。それさえあれば、仲間が集まってきて、いい方向に向かう。結果が早いか遅いかはあっても、確実にいい方向に向かうと、私は証明していきたい」。

日本の物流を支え、地域のインフラを支える。血のつながらない先代から受け継いだ「人を大切にする経営」を、次の世代へとつなぐこと。それが、事業承継をした登坂氏自身の使命なのです。

コントリからのメッセージ

印象に残るのは、「お金のためではなく、この人が守ってきた会社を継ぎたい」という、登坂氏の一言です。

事業承継というと、株式や資産、技術の引き継ぎに目が向きがちです。しかし登坂氏の物語が教えてくれるのは、承継の本質が「人を大切にする想いの引き継ぎ」であるということでした。好条件のスカウトを断り、社名を残し、血のつながらない先代を「父親以上の存在」と呼ぶ。その関係性の深さこそが、反対を押し切る覚悟を支えていました。

「経営者のDNAはない。だから学ぶ」と言い切り、朝7時半の学びを1年以上続ける姿には、後継者やゼロから経営に挑むすべての人への励ましがあります。親族外承継や後継者不在に悩む経営者の方にこそ、ぜひ一度、登坂氏の話を聞いてみてほしいと思います。

プロフィール

株式会社磯田オート
代表取締役
登坂 耕也(とさか たかや)

1979年、茨城県つくば市生まれ。高校では創部間もないラグビー部に一期生として打ち込み、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を座右の銘とする。自動車整備の専門学校を卒業し整備士資格を取得、整備工場勤務や人材派遣を経て、株式会社磯田オートに入社。専務取締役を経て30歳ごろに代表取締役へ就任し、血縁ではない前代表から会社を継ぐ「第二創業」を果たす。東日本大震災を機にトラックを基軸とした整備体制へ転換し、日本の物流と地域インフラを足元で支える。「従業員が生涯安心して働ける職場づくり」を掲げ、2030年に従業員30名を目指す。人生理念は「大切な人を大切にする」。座右の銘は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。趣味は食べ歩きと旅行。

ギャラリー

会社概要

会社名株式会社磯田オート
設立1995年
資本金1,000万円
本社所在地〒300-2642 茨城県つくば市高野577
従業員数14人
事業内容自動車・貨物車のメンテナンスを主軸とする総合カーサービス。①乗用車・貨物車の車検(関東運輸局認定の民間指定車検場)②板金塗装・一般修理・レッカー対応 ③新車・中古車販売 ④自動車保険の紹介。乗用車から大型・事業用・トレーラーまで対応。
コーポレートサイトhttps://www.isoda-auto.com/

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