
「難病は僕にとってギフト」——元格闘家・大山峻護が絵筆で描き変えた、25年越しの奇跡|エーワールド株式会社
「25年前にあれだけ苦しんだ出来事が、僕にとって最高の出来事に変わっちゃった」——。
ニューヨークでの個展から帰国して間もない取材の席で、大山峻護氏はそう語りました。エーワールド株式会社の代表取締役であり、PRIDEなどで世界の強豪と戦った元総合格闘家。コントリでは2025年7月に、ファイトネス企業研修と「ご縁繋ぎ」の哲学を伺いました(前回の記事はこちら)。
あれから1年余り。大山氏は難病の宣告をきっかけに絵筆を握り、わずか10カ月で400点を描き上げ、ついにはニューヨークで個展を開きます。そしてその会場で、25年間胸の奥にしまってきた“あの試合”に決着をつけました。「次のステージ」に立った大山氏に、逆境をギフトに変える生き方を伺いました。
ドラえもんの落書きから1年足らず——「習わないで、そのままで」が開いたアートの扉

始まりは、2025年2月の居酒屋でした。
「親友のこうちゃんが『みんなでドラえもん描こうぜ』って言い出して。僕はちょっと猟奇的なドラえもんを描いてしまったんです」
大山氏はそう振り返ります。そのドラえもんを、仲間たちが喜んでくれた。それが嬉しくて、大山氏はスケジュール帳に絵を描いては写真に撮り、Facebookに投稿するようになりました。

半分冗談で「僕に絵を教えてくれる人いませんか」と投稿したところ、多摩美術大学の名誉教授・西岡文彦先生から連絡が届きます。
「『大山さんの絵は、これからずっと残るものになる。スケジュール帳じゃなく、ちゃんとした画材で描いてください。それと、絵は習わないで、そのままでいってください』と言われたんです」
その喜びを、大山氏は「震えるほど」と表現します。
「小学校2年生のとき、柔道教室の先生に『大山、背負い投げうまいな』と言われて、それがきっかけで柔道が大好きになったんです。あのとき以来の衝撃でした」
その足で画材店に走り、何を買えばいいのかもわからないまま、油絵の道具をセットで買い揃えました。格闘技人生の原点となった一言と、アート人生の原点となった一言。40年以上の時を隔てて、二つの「認められた瞬間」がつながったのです。
アントニオ猪木さんと同じ病。「何かを残したい」が絵に没入させた

描き始めて間もなく、大山氏に難病が見つかります。
「アントニオ猪木さんが亡くなった病気と同じ、アミロイドーシスです。僕はアミロイドを除去できない体なので、心臓や神経にくっついてしまうんです」
大山氏は、こう続けます。
「猪木さんは、僕にとってウルトラマンだったんですよ。子どもの頃から好きで好きでたまらなかった人が亡くなるきっかけになった病気。それに自分もなった。すごく大きなインパクトでした」
そこで芽生えたのが、「何かを残したい」という強い思いでした。
「僕には子どもがいません。じゃあ、残すのは今描いている絵だな、と。そこから絵に没入するようになったんです。それが、僕がアートに目覚めたきっかけです」
西岡先生は、なぜ「習わないで」と言ったのか。大山氏はこう受け止めています。
「技術がない分、そのままストレートに描くところを、子どもみたいでいいと思ってくれたんだと思います。変に覚えると、そこに自我が入っちゃう。何でもそうですよね。人生って本当は、我がない方がうまくいくんです」
前回のインタビューでも繰り返し語られた「我を入れない」という信条は、絵筆を握ってからも大山氏の真ん中にあります。
10カ月で400点、目白の倉庫に900人——頭で考えず「湧いてくる」ものを描く

それからの大山氏は、1日7〜8時間を絵に費やすようになります。10カ月で描き上げた作品は、およそ400点。その量を見た格闘技時代の師匠・手塚高弘さんが「大山くん、もう個展をやってみなよ」と背中を押しました。同じ時期、株式会社ジャストプロの寺井禎宏社長も「全面的にバックアップするから、個展をやりましょう」と申し出てくれたといいます。
2025年12月、東京・目白で初めての個展が開かれました。倉庫をリノベーションした広い会場に、粘土の作品も含めて162点を展示。1週間で900人以上が訪れ、絵の作品152点はすべて完売しました。
「これで僕の人生が一気に変わりました。もうアートに全振りしてみようと、思い切りがついたんです」
400点ものアイデアはどこから来るのか。そう尋ねると、即座に答えが返ってきました。
「全部、湧いてきます。頭を空っぽにして、湧いてきたものをそのまま描くと決めているんです。頭で考えてひねり出すことはしません」
その感覚は、アスリート時代に培ったものだといいます。
「スポーツで本当に集中したときって、考えないじゃないですか。感覚の世界です。考えるとストップするんですよ。損得とか承認欲求とか、いろんなものが出てくるから」
技術で勝負するつもりはありません。大山氏が絵に込めるのは、エネルギーです。
「今から技術を学んでも、ずっと勉強されてきた方には足りない。でもエネルギーなら、アスリート時代からとことんやってきた。テクニックがない分、エネルギーをぶつける。構図がおかしくても構わないから、とにかく思いを入れるんです」
作品の完成も、理屈では決めません。「これでOKなんだな、というのが来るんですよね。不思議ですよね」と大山氏。
人生3度目の「運命の激流」——ファイターの血を騒がせたニューヨークという山

「流れのままに」。その感覚を大切にしていた大山氏の前に現れたのが、ニューヨークでした。きっかけは、ニューヨークビズの高橋克明さんとの会話です。
「ニューヨークが目の前にドーンと来て、ファイターの血が騒いだんですよ。現役時代、僕は世界最高のモンスターたちと戦ってきました。ニューヨークって、エンタメの世界の最高峰、めちゃくちゃ険しい山じゃないですか。ミルコやグレイシー一族に立ち向かっていたときと同じ感覚でした。これを乗り越えたら、どんな景色が見えるんだろうって」
恐れはなかったのか。そう聞くと、こんな答えが返ってきました。
「もちろんあります。でも、全然超えちゃう。恐れを包んじゃう感じです。引退して12年、強敵に挑む感覚なんて久しく味わっていなかった。普通の人になっていましたから。燃えましたね」
大山氏には、人生で3度だけ感じた「運命の激流」があるといいます。1度目はPRIDEのリングに上がるとき。2度目はピーター・アーツと戦うとき。そして3度目が、今回のニューヨークでした。
「川の激流みたいに、皮膚感覚でわかるんです。家の20メートル先にコンビニがある、それくらい確かな感覚で、未来がもう“ある”」
ニューヨークをよく知る専門家から、大山氏を心配して厳しい意見が届いたこともありました。それでも気持ちは揺らぎません。「サーキットでエンジンを吹かして走っているのに『止まれ』と言われているようなもの。もう走ってますから(笑)」。


個展会場に導かれた一人の女性、そして前日の知らせ——生まれて初めて「手放した」夜

ニューヨークで個展を開く。そう決めたとき、大山氏の中にもう一つのテーマが生まれました。25年前に戦ったヘンゾ・グレイシーとの再会です。ニューヨークで道場を開いているヘンゾ氏に会えるのは、このタイミングしかないと考えたのです。
その願いは、不思議な縁でつながっていきます。目白の個展で、大山氏は来場者の前で絵を描いていました。まだ半分ほどしか描けていないとき、見知らぬ女性が「この絵が欲しいです」と声をかけてきたのです。
後日あらためて会った際、大山氏が「今度ニューヨークでも個展をやりたい」と話すと、女性は驚いてこう言いました。「ニューヨークのヘンゾ・グレイシーの道場に、息子がいました」。
その息子さんが橋渡しをしてくれ、再会の約束が実現しました。しかも女性が目白を訪れた理由は、朝起きたときに「個展」という声が聞こえたから。大山氏のことは何も知らずに来ていたのだといいます。
「全部、神様に導かれているなと思いました」
大山氏はヘンゾ氏のために絵を描き、ソニーの出井会長のスピーチを手がけていた佐々木繁範さんと、ヘンゾ氏の来場を前提にしたスピーチを練り上げました。
ところが前日、ヘンゾ氏の関係者から電話が入ります。「忙しくて来られない可能性が出てきました」。
「すごく落ち込みました。でも、このとき僕は、生まれて初めてのことをしてみたんです。それは、手放すこと」
大山氏は、こう続けます。
「今までは夢を形にするために生きてきました。それが時には執着にもなっていた。でも、ここまで来られたことに感謝しようと。ニューヨークで個展ができること自体に感謝しよう。ヘンゾが来てくれたら嬉しいけど、来てくれない世界線も愛そう。そう思ったら、すごく心が軽くなったんです」
当日、佐々木さんは急遽「ヘンゾが来ない版」のスピーチも用意してくれました。レセプション開始後の夜7時半。ヘンゾ氏の姿はありません。大山氏は「来ない版」のスピーチを選び、「やっぱり来ないんだな」と思いながら壇上に立ちました。

オセロが全部ひっくり返った夜——25年前の試合が、ようやく終わった
スピーチを終え、大山会の仲間たちが歌やパフォーマンスで会場を盛り上げていた、そのときです。
「後ろから、ものすごい存在感を感じて。振り向いたら、ヘンゾ・グレイシーがいたんですよ」
ヘンゾ氏は多忙の合間を縫い、車で7時間、ぶっ通しで駆けつけてくれていました。ハグを交わした瞬間、大山氏は思いきり泣いたといいます。



この再会の重さを知るには、25年前に時を戻す必要があります。ヘンゾ氏との試合で、大山氏は勝つことに特化した、判定狙いのディフェンシブな戦い方を選びました。結果、会場は大ブーイング。ファンからも、マスコミからも、関係者からも激しく叩かれました。
「僕はヒーローになりたくて、ウルトラマンになりたくて格闘技の世界に入ったんです。勇気と感動を与えたかったのに、真逆のものをみんなに与えてしまった。それが苦しくて、現役中は睡眠薬を飲まないと眠れないくらい、自分を削ってしまいました」
当時は「ヘンゾ」という言葉が出るだけで足が震えたといいます。その相手と、ニューヨークで抱き合っている。
「『あなたと戦えたことを誇りに思っている。ありがとう』と言えたんです。その言葉を言えたことで、本当の意味で、僕の中の25年前の試合が終わりました。ヘンゾも抱きしめてくれて。奇跡って、人生で起きるんだなと」
友人が撮っていたその瞬間の動画は、Instagramで大きな反響を呼びました。
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「オセロで全部黒だったのが、全部白にひっくり返ったみたいな。人生でこんなことがあるんだなって。こんなに『戦ってよかった』と思えるなんて」
ヘンゾ氏と語り合う間には、仲間のアーティストが即興でピアノを奏で、英語に堪能な仲間が通訳を買って出てくれました。


「全てが神様の配置でした。人生って点じゃなくて、それが線につながって、円になって、ギフトになって返ってくるんだと、体感させられました」
希望は「未来のフック」。自力から他力へ、エネルギーは国境を越える

25年。それは、大山氏が人と人をつなぐ「ご縁繋ぎ」を続けてきた26年とほぼ重なります。そう伝えると、大山氏は「確かに」と応じました。
「見えない徳を貯金していたのかもしれないですね。それがバカーンと返ってきた。人生には本当に無駄なことが一つもないと思います。難病にならなかったらアートの扉は開かなかったし、アートがなかったらニューヨークにも行かなかった。難病は、僕にとってギフトですよ」
ただし、苦しいときに「これはギフトだ」と思えるわけではありません。大山氏が大切にしてきたのは、希望を捨てないことでした。
「25年前は本当に苦しかった。でも『いつかきっと笑える日が来る』という希望は捨てなかったんです。僕は、希望って『未来のフック』だと思っていて。フックをかけないと、絶望は絶望のまま、点は点のままなんです。点を線にするのは、絶対に希望なんですよ。僕は25年後でしたけどね(笑)」
レセプションには150人弱が集まり、日本からも大山会の仲間が30人近く駆けつけました。「ギャラリーにこんなに人が集まるのは見たことがない」と現地のアート関係者が驚くほどでした。

「現役時代の僕は『俺が、俺が』の自力でした。引退して、他力を知りました。力を抜くと、みんなが力を貸してくれる。それは自力の何倍にもなるんです。シャカリキって『釈迦の力』、見えない力のこと。今回は本当に釈迦力で、想像を超えた景色をみなさんが見せてくれました」
海外の来場者の多くが、作品に「エネルギーを感じる」と声をかけてくれました。
「上手い絵は描けない。でもエネルギーは込められる。それが国境を越えて伝わると確信できました。世界平和も、みんなの幸せも、言葉では伝わらないことがある。でもアートなら届く。僕にとってアートは、ウルトラマンのスペシウム光線なんです」
大山会は「船」——方向だけ決めて、力を抜いて生きる

この先について尋ねると、大山氏の答えはシンプルでした。
「方向だけ決めています。多くの人たちを笑顔にする、喜んでもらう。あとは多分、流されていくんだろうなと」
決めすぎると、また我が入って重くなる。だから力を抜く。前夜に「手放した」のも同じことです。
「現役時代は、力んで力んで、心も体も重くなっていました。でもパンチも一緒で、力を抜かないと効かない。僕たちは『頑張れ、力め』と教わるけど、本当は逆なんです」
ご縁との向き合い方も変わりました。知らない人同士を集める「ご縁繋ぎ」のフェーズは終わり、今そばにいる仲間との縁を「深める、育む」ことにエネルギーを注ぎたいといいます。「難病になって、動くのに体のエネルギーを結構使うんです。限られた時間を、いかに大切に使うか」。
大山氏は、自身が主宰する仲間の集まり「大山会」を船にたとえます。
「僕が船です。降りる人もいるし、ずっと乗っている人もいるし、一回降りてまた乗る人もいる。でも僕がマストで決めているのは、必ずみんなを『希望の島』に連れていくことだけ。みんなが喜んでくれるという柱がぶれなければ、あとは全部枝葉。枝葉は勝手に育っていきますから」

2回目のニューヨーク個展は——。そう水を向けると、「もちろん」と即答しながら、こう付け加えました。「でもそれも、流れに身を任せようと思っています。必要であれば、今回みたいに起きると思うんですよね」。
コントリからのメッセージ
「全部ギフトに変わるよ」——取材の最後、伝え漏れたことはないかと尋ねると、大山氏はこの一言だけを残しました。
前回の取材で語られた「我を入れない」「みんなが喜ぶ」という哲学は、この1年余りで、難病、アート、ニューヨーク、そして25年越しの再会という具体的な出来事となって、大山氏自身の人生に返ってきていました。「ヘンゾ」という名前に足を震わせていた人が、今はその名を何度も口にしながら「戦ってよかった」と語る。その姿こそが、「悪いことは悪いことじゃない」という言葉の何よりの証明です。
誰にでも、まだ終わっていない“試合”があるのかもしれません。苦しくてもいい。いつか笑える日に向けて、希望という「未来のフック」をかけておく。あなたの中の点を線に変える勇気を、大山氏の生き方はきっと後押ししてくれるはずです。
プロフィール
エーワールド株式会社
代表取締役
大山 峻護(おおやま しゅんご)
1974年、栃木県生まれ。5歳で柔道を始め、全日本サンボ選手権4度優勝。2000年にプロ格闘家へ転身し、PRIDE、HERO’Sなど国内外の舞台でヘンゾ・グレイシー、ピーター・アーツら世界的強豪と戦う。2012年に韓国ROAD FCミドル級初代王者となり、2014年に現役引退。エーワールド株式会社代表として格闘技を応用した企業研修「ファイトネス」を100社以上に届け、26年にわたり人と人をつなぐ「ご縁繋ぎ」を続ける。2025年、アミロイドーシスの発覚を機に独学で絵を描き始め、10カ月で約400点を制作。同年12月に東京・目白で初個展を開き、1週間で900人以上が来場、絵の作品152点が完売。2026年にはニューヨークで個展を開催し、25年前に戦ったヘンゾ・グレイシー氏との再会を果たす。仲間の集まり「大山会」を主宰。座右の銘は「ALL INTO POWER 〜すべてを力に〜」。
ギャラリー
























会社概要
| 会社名 | エーワールド株式会社 |
| 代表者 | 代表取締役 大山 峻護 |
| 事業内容 | ①格闘技×フィットネス「ファイトネス」による企業研修・人材育成 ②アーティスト活動 ③コミュニティ「大山会」の主宰 |
| 大山会 | https://oyamakai.net/ |

