
個人事業の事業承継|会社と違う4つの壁と手続きの順番
「そろそろ息子に店を任せたい。でも、何から手をつければいいのか」。個人で事業を続けてきた方なら、一度は頭をよぎる問いではないでしょうか。事業承継を個人事業で進める道筋は、会社の場合ほど知られていません。
個人事業の事業承継は、会社のように株式を渡して終わりにはできません。会社という器がないため、店舗や設備、契約、許認可、従業員の雇用を一つずつ後継者へ移します。税務上は「先代の廃業」と「後継者の開業」の組み合わせで、届出ごとに期限が決まっています。
本記事では、会社との違い、継ぎ手の選び方、個人事業ならではの4つの壁を整理しました。そのうえで、届出の期限、税の制度、法人化してから継ぐ方法、3年前からの準備の順番を見ていきます。判断の材料になれば嬉しく思います。
個人事業の事業承継とは|会社のように株で渡せない
個人事業の事業承継とは、先代が個人で営んできた事業の資産・契約・信用を、後継者個人へ移すことです。会社の承継は株式を移せば中身ごと引き継がれますが、個人事業では中身を一つずつ移す必要があります。この違いが、手続きの多さの理由です。
| 比べる項目 | 法人の承継 | 個人事業の承継 |
|---|---|---|
| 引き継ぐもの | 株式を移せば会社ごと移る | 資産・契約を個別に移す |
| 契約・許認可 | 会社名義のまま続く | 原則として後継者名義で結び直し・取り直し |
| 税務上の扱い | 株式の贈与・相続・売買 | 先代の廃業と後継者の開業 |
| 主な税金 | 株式にかかる贈与税・相続税 | 事業用資産にかかる贈与税・相続税、売る場合は譲渡所得税 |
| 屋号・社名 | 社名はそのまま | 開業届に同じ屋号を書けば続けて使える |
法人の承継は株式、個人の承継は資産と契約の束
会社の場合、土地も設備も契約も、持ち主は会社という「法人」です。株主や社長が代わっても、会社そのものは同じ会社のままです。そのため、株式を後継者に移せば、会社の中身はそのまま引き継がれます。
個人事業では、事業の持ち主は先代本人です。店舗の土地や建物、機械、車両、預金口座、取引先との契約は、すべて先代個人の名義で結ばれています。事業を渡すとは、こうした資産と契約の束を、一本ずつ後継者の名義へ付け替える作業にほかなりません。
例えば、町の工務店を父から子へ継ぐ場面を考えてみましょう。作業場の建物、トラック、工具、材料の仕入先との取引、銀行の借入、建設業の許可。会社なら株を渡せば一度に済むところを、個人事業では項目ごとに手続きを踏む形です。
生前に譲る場合と相続で継ぐ場合
個人事業の承継は、2つの形に分かれます。先代が元気なうちに譲る「生前承継」と、亡くなってから継ぐ「相続による承継」です。生前承継では、事業用の資産を後継者へ贈与するか、売るかを選びます。
相続による承継は、準備のないまま始まりがちです。遺産分割が決まるまで事業用の資産が相続人全員の共有になり、後継者が一人で判断できない期間が生まれます。相続人の間で意見が分かれると、店の営業そのものが止まりかねません。
先代が元気なうちに道筋をつけておけば、先代と後継者が並んで取引先に挨拶に回れます。手続きの面でも信用の面でも、生前承継のほうが選べる手が多いのが実情です。
屋号も信用も自動では移らない
屋号とは、個人事業主が使う店名や商号のことです。例えば「山田工務店」のように、個人名とは別に名乗る名前を指します。屋号は、後継者が開業届に同じ名前を書けば使い続けられます。
ただし、屋号の名義で作った銀行口座や、屋号で結んだ契約の中身は、先代個人のものです。後継者の名義で口座を開き直し、取引先とは契約を結び直す必要があります。看板は同じでも、法律上は別の人が営む新しい事業。そう捉えておくと、手続きの意味が見えてきます。
取引先や金融機関の信用も、書類だけでは移りません。先代が何十年もかけて積み上げてきたご縁を、後継者が自分の言葉で受け継ぐには、時間が欠かせません。
誰に継ぐか|親族・従業員・第三者の3つの道
個人事業の継ぎ手は、子どもなどの親族、長く働いてきた従業員、外部の第三者の3つに分かれます。親族なら贈与や相続、従業員や第三者なら売買が中心になり、必要な資金と税金が変わります。最初に継ぎ手を決めることが、承継準備の出発点です。身内に継ぐ人がいない場合、どうすればよいのかと迷う方も多いのではないでしょうか。
親族内承継
移し方贈与・相続
主な負担贈与税・相続税
向く場合子どもや配偶者に継ぐ意思がある
主な壁後継者以外の家族との公平
従業員承継
移し方売買
主な負担後継者の買い取り資金、先代に譲渡所得税
向く場合仕事と取引先をよく知る人がいる
主な壁買い取り資金の準備
第三者承継
移し方事業譲渡・個人M&A
主な負担先代に譲渡所得税
向く場合身内にも社内にも継ぎ手がいない
主な壁譲り受ける人を探すこと
親族内承継|贈与・相続で資産を移す
親族内承継とは、子どもや配偶者などの家族に事業を継ぐ方法です。事業用の資産は、生前の贈与か相続で移すことが多く、後継者に大きな購入資金は不要です。その代わり、贈与税や相続税の負担が生まれます。
気をつけたいのは、後継者以外の家族との公平です。店舗の土地や建物を後継者に集めると、ほかのきょうだいの取り分は少なくなってしまう。そこに争いの種が生まれます。先代が元気なうちに家族で話し合い、遺言書などで意思を残しておくと、相続のときの争いを防ぎやすくなります。
従業員承継|買い取り資金が壁になる
従業員承継とは、長く一緒に働いてきた従業員に事業を継ぐ方法です。仕事の中身も取引先もよく知っているため、引き継ぎがなめらかに進みやすい形です。
一方で、従業員の多くは、事業用の資産を買い取る資金を持っていません。先代が資産を安く譲ったり、分割で代金を受け取ったりする工夫が必要です。日本政策金融公庫などには、事業承継のための融資制度も用意されています。
従業員に継ぐときは、先代が代表を退いたあとも、しばらく相談役として残る形をとる例も見られます。取引先にとっては、見知った顔が並んでいることが何よりの安心材料でしょう。資金の手当てと同じくらい、引き継ぎの期間をどう設けるかも話し合っておきましょう。
第三者承継|事業譲渡と個人M&A
第三者承継とは、親族でも従業員でもない外部の人に事業を譲る方法です。個人事業の場合は、事業用の資産と取引先、ノウハウをまとめて売る「事業譲渡」の形をとります。
最近は、会社員が独立の手段として小さな事業を買う「個人M&A」も広がっています。独立・開業支援のアントレの解説動画でも、会社員が300万円ほどで事業を買う方法が紹介されていました。後継者のいない個人事業にとって、廃業以外の選択肢が増えていると言えます。
会社を対象にしたM&Aの判断軸は、別の記事で詳しく整理しています。第三者への譲渡を考えている方は、M&Aによる事業承継の5つの判断もあわせてご覧ください。
個人事業の承継で会社と違う4つの壁
個人事業の承継には、会社の承継では起きない壁が4つ存在します。許認可の取り直し、契約の結び直し、従業員の雇用の手続き、先代個人の借入の扱いです。どれも承継日の直前に気づくと間に合わないため、先に洗い出しておきます。会社と同じ感覚で考えていると、見落としやすい点ばかりではないでしょうか。
| 項目 | 主な中身 | 今の名義 | 切り替え先 |
|---|---|---|---|
| □ 許認可 | 建設業・飲食店営業・古物商・運送業など | ||
| □ 賃貸借契約 | 店舗・事務所・倉庫 | ||
| □ リース契約 | 車両・機械・複合機 | ||
| □ 取引先との契約 | 仕入先・得意先・外注先 | ||
| □ 銀行口座・決済 | 預金口座・クレジットカード決済・電子マネー | ||
| □ 借入金と保証 | 残高・保証人・担保 | ||
| □ 従業員 | 雇用契約・社会保険・労働保険 | ||
| □ その他の名義 | 電話番号・ドメイン・各種アカウント |
壁1 許認可は原則として取り直しになる
許認可とは、建設業や飲食店、運送業などを営むために、行政から受ける許可や届出のことです。個人事業の許認可は先代個人に与えられたものなので、原則として後継者がそのまま使うことはできません。
ただし、業種によっては引き継ぎの道が用意されています。建設業は、2020年10月施行の建設業法の改正で、許可を引き継ぐ道ができました。事業譲渡なら事前に、相続なら死亡後30日以内に認可を申請すると、空白なく承継できます。飲食店の営業許可も、相続の場合は営業者の地位の承継届で引き継げます。
扱いは許認可ごとに違います。新しく取り直す場合、審査の期間に営業できない空白が生まれるおそれもあります。自分の事業に必要な許認可を一覧にし、所管の窓口に承継の方法を確かめておくことが先決です。
壁2 取引先・賃貸・リースの契約は結び直し
店舗の賃貸借契約、車両や機械のリース、仕入先との取引契約は、どれも先代個人と相手方との約束です。後継者が引き継ぐには、相手方の同意を得て、名義を変えるか契約を結び直す必要があります。
賃貸の店舗では、貸主が名義の変更に応じてくれるかどうかが一つの山場です。貸主によっては、後継者の信用を改めて確かめたいと考えます。リースは残りの期間と残債をどうするか、リース会社との話し合いが欠かせません。
仕入先や得意先には、承継の時期と後継者を早めに伝えておきましょう。新しい名義で取引口座を開くには、相手方の社内審査を待つ時間が要ります。
壁3 従業員の雇用と社会保険の手続き
従業員がいる個人事業では、雇用契約も先代個人と結ばれています。後継者が事業を継ぐときは、従業員の同意を得て、後継者を雇い主とする雇用に切り替えます。
あわせて、労働保険や社会保険の手続きも必要です。先代の事業所を廃止し、後継者の事業所として新たに届け出る流れです。給与を払う場合は、税務署への給与支払事務所等の開設届出書も出します。
手続き以上に大切なのは、従業員への説明です。雇い主が変わると聞けば、不安を覚えるのが自然でしょう。働く条件がどう変わり、何が変わらないのかを、先代と後継者がそろって伝える場を設けると安心につながります。
壁4 先代個人の借入と保証をどうするか
個人事業の借入金は、先代個人の借金です。後継者が事業を継いでも、借入は自動では移りません。金融機関と相談し、後継者が新たに借りて返す「借り換え」か、「債務引受」を選ぶのが一般的です。債務引受とは、先代の借金の返済義務を後継者が引き受ける契約のことです。
相続による承継では、借入金も相続財産に含まれます。後継者以外の相続人にも返済の責任が及ぶため、家族の間で整理しておく必要があります。
財産より借金が多いときは、相続放棄も選択肢です。相続放棄とは、財産も借金も一切受け継がないと家庭裁判所に申し立てる手続きのこと。原則、相続を知ってから3か月以内に申し立てます(裁判所)。
金融機関との関係づくりは、承継の1年以上前から始めておきたいところです。後継者を連れて取引銀行に挨拶し、決算書や事業計画を一緒に説明しておくと、借り換えの審査も通りやすくなります。
税務の手続き|廃業届・開業届・青色申告の期限
個人事業の承継は、税務上は先代の廃業と後継者の開業として扱われます。先代は廃業届、後継者は開業届を税務署へ出し、期限はどちらもその年分の確定申告期限までです。急ぐべきは青色申告の承認申請で、開業から2か月以内という短い期限があります。
先代の廃業届と後継者の開業届
先代は「個人事業の開業・廃業等届出書」に廃業と書き、税務署へ出します。後継者は同じ様式に開業と書いて出します。国税庁によると、期限はいずれも、その年分の確定申告期限までです。先代が亡くなった場合の廃業届は、相続人が出します。
期限には余裕がありますが、開業届は青色申告の申請と同時に出しておくと手間が一度で済みます。開業届には、事業を引き継いだ旨と先代の氏名を書く欄も設けられています。従業員を雇う場合の届出も含め、承継のときに出す主な書類を一覧にしました。
| 届出 | 出す人 | 提出先 | 期限 |
|---|---|---|---|
| 個人事業の開業・廃業等届出書(廃業) | 先代(相続なら相続人) | 税務署 | 廃業した年分の確定申告期限まで |
| 個人事業の開業・廃業等届出書(開業) | 後継者 | 税務署 | 開業した年分の確定申告期限まで |
| 所得税の青色申告承認申請書 | 後継者 | 税務署 | 開業日から2か月以内(相続は下の表) |
| 給与支払事務所等の開設届出書 | 後継者 | 税務署 | 開設から1か月以内 |
| 事業開始等申告書(個人事業税) | 後継者 | 都道府県税事務所 | 都道府県ごとに決まる期限まで |
| 労働保険の保険関係成立届 | 後継者 | 労働基準監督署 | 成立の翌日から10日以内 |
| 健康保険・厚生年金保険の新規適用届 | 後継者(適用事業所のとき) | 年金事務所 | 事実発生から5日以内 |
| 事業廃止届出書(消費税) | 先代 | 税務署 | 廃止後すみやかに |
| 個人事業者の死亡届出書(消費税) | 相続人 | 税務署 | 死亡後すみやかに |
※出典:国税庁タックスアンサーNo.2090(令和8年4月1日現在法令等)。労働保険・社会保険の期限は厚生労働省・日本年金機構の案内による(従業員を雇う場合)
青色申告承認申請書の期限|生前承継と相続で違う
青色申告とは、帳簿をきちんとつける代わりに、税の優遇を受けられる申告の方法です。国税庁によると、控除は最大65万円です。先代が青色申告をしていても、その承認は後継者には引き継がれません。後継者自身が承認を申請します。
生前承継で開業した場合、申請の期限は開業日から2か月以内です(国税庁)。相続で継いだ場合は、先代が青色申告者だったときに特例があり、死亡した時期で期限が変わります。
| 承継の形 | 条件 | 提出期限 |
|---|---|---|
| 生前承継(新規開業) | 1月16日以後に開業 | 開業日から2か月以内 |
| 相続・先代が青色申告者 | 死亡日が1月1日〜8月31日 | 死亡日から4か月以内 |
| 相続・先代が青色申告者 | 死亡日が9月1日〜10月31日 | その年の12月31日まで |
| 相続・先代が青色申告者 | 死亡日が11月1日〜12月31日 | 翌年2月15日まで |
| 相続・先代が白色申告者 | 業務を始めた日が1月16日以後 | 業務開始から2か月以内 |
※出典:国税庁タックスアンサーNo.2070 青色申告制度(令和8年4月1日現在法令等)
期限を過ぎると、その年は白色申告になります。65万円の控除など、青色申告の優遇は受けられません。後で触れる個人版事業承継税制も、青色申告であることが前提の一つです。承継の段取りでは、青色申告の申請を最初の週に済ませるくらいの気持ちで進めてください。
消費税の納税義務と準確定申告
消費税は、原則として2年前の課税売上高が1,000万円以下なら納めなくてよい仕組みです。課税売上高とは、消費税がかかる取引の売上の合計のこと。生前承継で開業した後継者には、この「2年前」の売上がありません。一方、相続で継いだ場合は、先代の売上を含めて判定する決まりがあり、扱いが異なるのです。
ただし、インボイスに登録すれば、売上の大きさにかかわらず消費税を納める側になります。インボイスとは、取引先が消費税の控除を受けるために必要な、登録番号入りの請求書のことです。先代の登録番号は、生前承継では後継者に引き継がれません。後継者が改めて登録を申請します。
相続の場合は、後継者が自分の登録を受けるまで、最長で死亡の翌日から4か月、先代の登録を使い続けられる特例があります。その際は「適格請求書発行事業者の死亡届出書」を出します(国税庁 インボイス制度)。
相続による承継では、先代の亡くなった年の所得を申告する「準確定申告」も必要です。相続の開始を知った日の翌日から4か月以内に、相続人が代わって申告します(国税庁タックスアンサーNo.2022)。届出と申告が一度に重なる時期なので、税理士に早めに相談しておくと慌てずに済みます。
税負担を抑える制度|個人版事業承継税制と小規模宅地等の特例
個人事業の資産を継ぐときの税負担は、「個人版事業承継税制」で軽くできる場合があります。事業用資産にかかる贈与税・相続税の納税を猶予する制度です。
ただし、小規模宅地等の特例のうち事業用宅地の特例とは、どちらか一方を選ぶ関係にあります。土地が大きいか、建物や機械が大きいかで、向く制度が変わってきます。
| 比べる項目 | 個人版事業承継税制 | 小規模宅地等の特例(事業用) |
|---|---|---|
| 対象 | 宅地・建物・一定の減価償却資産 | 事業に使っていた宅地 |
| 効果 | 贈与税・相続税の納税を猶予し、一定の場合に免除 | 宅地の評価額を80%減額 |
| 上限 | 宅地400㎡・建物800㎡ | 宅地400㎡ |
| 事前の手続き | 2028年9月30日までに個人事業承継計画を提出し、認定を受ける | 事前の計画は不要 |
| 承継後の条件 | 事業と青色申告を続ける | 申告期限まで事業と保有を続ける |
個人版事業承継税制の対象と要件
個人版事業承継税制とは、個人事業の資産を継ぐ後継者の税負担を軽くする制度です。国税庁のパンフレットによると、2019年1月から10年間の特例として設けられました。
青色申告で事業を営む先代から、後継者が「特定事業用資産」を受け継ぐとき、贈与税や相続税の納税が猶予されます。納税猶予とは、本来納める税金の支払いを先に延ばしてもらう仕組みのこと。後継者が亡くなるなど一定の場合には、猶予された税金が免除されます。
対象は、事業に使う宅地400㎡まで、建物の床面積800㎡まで、そして一定の減価償却資産です。減価償却資産は、固定資産税や営業用の自動車税などがかかる機械・車両のほか、一定の乗用自動車や特許権なども対象です。いずれも、前年の青色申告書の貸借対照表に載っていることが条件です(国税庁)。先代が65万円または55万円の青色申告特別控除を受けていたことも、条件の一つです。
使うには、都道府県への承継計画の提出と、知事の認定を受ける手続きが欠かせません。後継者にも要件があります。贈与なら18歳以上で、3年以上その事業に従事していることなどです。承継後も事業と青色申告を続ける必要があり、事業をやめるなど要件を外れると、猶予された税金に利子税を加えて納めます。
事業用宅地の特例とは併用できない
小規模宅地等の特例とは、亡くなった人の事業や住まいに使っていた土地の評価を下げられる、相続税の制度です。事業用の土地なら、400㎡まで評価額を80%減らせます(国税庁タックスアンサーNo.4124)。
この特例のうち、事業用の宅地の特例と、個人版事業承継税制は同時には使えません。住まいに使っていた宅地の特例なら、個人版と併せて使えます。土地の評価が大きい事業なら、小規模宅地等の特例が向く場面が多くなります。建物や機械の比重が大きい事業なら、個人版事業承継税制が候補です。
試算例で見てみましょう。事業に使っていた300㎡の宅地の評価額が6,000万円だとします。特例で80%が減り、相続税の計算上は1,200万円です。建物や機械はこの特例の対象外なので、それらの評価が大きい事業では個人版事業承継税制のほうが効く余地があります。
どちらが得かを決めるのは、資産の中身と金額です。試算は税理士に任せるのが確実です。事業承継における税理士の選び方は、事業承継における税理士の役割で整理しています。
期限と最新の改正を確かめておく
個人版事業承継税制には、計画の提出期限と、贈与・相続の適用期限があります。令和8年度の税制改正で、個人事業承継計画の提出期限は2028年9月30日まで延長されました。従来の期限は2026年3月31日です。一方、国税庁の資料では、制度を使える贈与・相続の期限は2028年12月31日のままです。
計画を出す時間は延びても、実際に資産を移す期限は変わっていません。期限後の制度のあり方は、今後の税制改正で示される見込みです。本記事の期限は、2026年11月時点の国税庁・財務省の資料で確認したものです。承継の時期を決める前に最新情報を確かめ、税理士と要件を一つずつ確認してください。
設備の更新や販路の開拓など、承継をきっかけにした取り組みには、補助金を使える道が用意されています。詳しくは事業承継補助金の対象と申請の流れをご覧ください。
法人にしてから継ぐという選択肢
承継までに数年の余裕があるなら、先に個人事業を法人にしてから、株式で後継者に渡す方法もあります。法人化すれば、その後の承継は株式の移転で済みます。後継者が代わっても、会社の契約や信用はそのまま残せます。
個人事業のまま継ぐ
承継のたび許認可・契約・口座・雇用を個別に切り替える
向く場合小さな事業をすぐに家族が継ぐ
法人にしてから継ぐ
法人化のとき切り替えは一度だけ
その後の承継株式の移転だけで済む
向く場合契約や従業員が多く、承継まで3年以上ある
法人成りで承継が株式の移転になる
法人成りとは、個人事業を会社の形に切り替えることです。先代が会社を作り、事業用の資産や契約を会社へ移します。この段階で、許認可の取り直しや契約の結び直しは一度必要です。
いったん会社にしてしまえば、次からは話が違ってきます。後継者への承継は、先代が持つ株式を贈与・相続・売買で移すだけです。株式を何年かに分けて少しずつ贈与することもできます。
一度の手間で、次の世代、その次の世代への承継まで楽になる。法人化してから継ぐ、最大の利点です。後継者が会社の役員として先に経営に加わり、先代と並んで仕事をする期間も作りやすくなります。
法人化のコストと手間
株式会社の設立には、登録免許税だけで最低15万円かかります。登録免許税とは、会社の登記をするときに国に納める税金のことです。
会社の決まりを書いた定款を公証人に確認してもらう「定款認証」の手数料も加わります。手数料は資本金に応じて原則3万〜5万円で、小規模な設立なら1万5,000円の区分もあります。電子定款なら紙の定款に要る収入印紙4万円は不要です(日本公証人連合会)。
合同会社なら定款認証は不要で、登録免許税も最低6万円です。毎年の決算や申告も、個人事業より手間と費用が増えます。社会保険への加入も原則として必要です。
一方で、法人には個人事業にない利点もあります。役員報酬を払うことで所得を分けられ、退職金を経費として出すことも可能です。先代が引退するときに会社から退職金を受け取れば、老後の資金づくりと承継を同時に進められます。
利益が少ない段階で法人にすると、税金の面でかえって負担が増える例も見られます。法人化は、承継のためだけでなく、事業の規模と利益を見て判断するものです。なお、法人の株式を継ぐときには法人版事業承継税制の特例があります。贈与・相続の期限は2027年12月31日で、個人版より早く来ます(国税庁)。
どんな個人事業なら法人化を先に考えるか
法人化を先に考えたいのは、次の3つにあてはまる事業です。
- 許認可や取引先との契約が多い
- 従業員を多く抱えている
- 承継まで3年以上の時間がある
どれも、個人のまま継ぐと手続きが膨らむ事業です。
反対に、先代と家族だけで営む小さな事業を、すぐに子どもが継ぐ場合はどうでしょう。個人事業のまま資産を移すほうが手軽に済むことが多くあります。迷ったときは、承継の手続きの数と、法人を維持する毎年の費用を並べて比べてみてください。
承継までの準備スケジュール|3年前から逆算する
個人事業の承継では、手続きより、後継者が取引先や従業員に認められるまでに時間がかかります。
中小企業庁の事業承継ガイドラインも、後継者の育成を含めて5〜10年の準備期間を目安に挙げています。少なくとも3年前から逆算して動き出すことが、事業を止めずに渡す近道です。
3年前
決める後継者を決める
書き出す資産・契約・許認可を一覧にする
言葉にする先代の想いと判断の理由
2年前
同行後継者が現場と取引先へ
判断法人化するか
試算税理士と税負担
1年前
伝える従業員→金融機関→取引先
相談借入の扱い
確認許認可の承継方法
承継月
届出青色申告の申請を最優先
切り替え契約と口座
手続き雇用と保険
3年前|後継者を決め、事業の中身を見える化する
最初の一歩は、後継者を決めることです。親族、従業員、第三者のどの道を選ぶのかが決まらないと、税金の準備も資産の移し方も決まりません。
あわせて、事業の中身を書き出します。前の章のチェックリストを使い、資産、契約、許認可、借入、従業員を一覧にしてみてください。漠然とした不安は、項目が並んだ瞬間に「やることの一覧」に変わります。
先代の頭の中にしかない情報も、この時期に言葉にしておきます。どの取引先と、なぜ長く付き合ってきたのか。値決めで譲れない線はどこか。こうした判断の理由は、書類には残らないものです。
1年前|取引先・金融機関・従業員に伝える
承継の1年前には、関係者へ伝える段階です。取引先と金融機関には、先代と後継者がそろって挨拶に回るのが理想です。先代の口から後継者を紹介することで、長年のご縁が後継者へとつながっていきます。
従業員には、承継の時期と、働く条件がどうなるかを説明します。借入の借り換えや許認可の承継方法も、この時期に相談を始めておくと、承継の月に慌てずに済みます。
伝える順番にも気を配りたいところです。従業員が取引先から先に噂を聞くと、不信感が残ります。社内に伝えてから外に伝える。この順番を守るだけで、受け止められ方は大きく違ってきます。
承継月|届出と契約の切り替えを一気に進める
承継の月は、届出と切り替えが集中します。税務署への廃業届と開業届、青色申告の承認申請、口座や契約の名義変更、従業員の雇用と保険の手続きです。
先にチェックリストを作っておけば、あとは順に消していくだけです。承継日を月の初日に置くと、帳簿の区切りがつけやすく、届出の日付もそろえられます。期限の短い青色申告の申請と、営業に直結する許認可の手続きから手をつけると、抜け漏れを防げます。
相談先|税理士・事業承継・引継ぎ支援センター
税金と届出は、税理士に相談するのが基本です。後継者探しや第三者への譲渡は、「事業承継・引継ぎ支援センター」が窓口です。国が各都道府県に置く機関で、個人事業主の相談も無料で受け付けています。
許認可は所管の役所、借入は取引のある金融機関、雇用と保険は社会保険労務士が窓口です。一人で抱え込まず、項目ごとに相談先を割り振っておくと、準備が前に進みます。
相談の前に、売上や利益の推移、資産と借入の一覧を手元にそろえておくと話が早く進みます。前の章のチェックリストが、そのまま相談の資料になるはずです。
継いだ経営者が口をそろえること
個人事業の承継でいちばん時間がかかるのは、届出ではなく、先代の想いと判断の理由を後継者が受け取ることです。届出は期限を守れば済みますが、信頼は書類では引き継げません。
経営者インタビューを続けるなかで、事業を継いだ方の話にも数多く触れてきました。手続きの苦労以上に語られるのは、先代の想いをどれだけ言葉で受け取れていたかという話です。
継いだ直後に起きること
継いだ直後は、先代と同じ判断を求められながら、その判断の理由を知らない状態から始まります。創業100年の和菓子店、菓匠禄兵衛の4代目・居川信彦さんは、24歳で突然店を任されました。レシピも帳簿の付け方も教わらないままだったといいます。
「お客さんから『味が変わった』『まずくなった』と言われて、史上最低売上を記録しました」
会社として継いだ例ですが、先代から教わる時間がない難しさは個人事業でも変わりません。居川さんの言葉は、引き継ぎの時間がないまま継ぐことの重さを物語っています。手続きは後から追いつけても、先代の頭の中にあった判断の基準は、教わらなければ手元に残りません。
後継者の立場からの生の声は、事業承継した経営者14人に聞いたにまとめています。継いだ直後に何が起き、先代にどんな共通点があったのかを、それぞれの方の言葉で読めます。
先代の想いを言葉にして残しておく
事業の資産は、届出と契約で移せます。けれども、事業を続ける理由は、先代が言葉にしない限り後継者には届きません。
なぜこの仕事を始めたのか。どの取引先と、なぜ長く付き合ってきたのか。値決めで譲れない線はどこか。
こうした問いに、先代が元気なうちに答えておく。それは、個人事業の承継でいちばん時間のかかる準備です。想いは一人で書こうとしても、なかなか言葉になりません。後継者が聞き手になって、先代に問いかけてみてください。
まとめ|個人事業の承継は「一つずつ移す」準備から
個人事業の事業承継は、会社のように株式を渡して終わりにはできません。資産、契約、許認可、従業員の雇用、借入を一つずつ後継者へ移し、税務署には廃業届と開業届を出します。
会社と違う4つの壁は、許認可の取り直し、契約の結び直し、雇用の手続き、借入の扱いです。税負担は、個人版事業承継税制か小規模宅地等の特例で抑えられる余地があります。承継まで時間があるなら、法人化してから株式で渡す道も比べてみてください。
最初の一歩は、後継者を決めることです。そのうえでチェックリストに事業の中身を書き出せば、相談すべき相手と順番が見えてきます。
よくある質問
Q. 個人事業を子どもに継ぐとき、どんな届出が必要ですか? A. 先代は個人事業の廃業等届出書を、後継者は開業届出書を税務署へ出します。期限はどちらも、その年分の確定申告期限までです。後継者が青色申告を使うなら青色申告承認申請書も必要です。従業員がいれば給与支払事務所等の開設届出書や社会保険の手続き、許認可が要る業種は所管窓口での手続きも必要になります。
Q. 相続で個人事業を継いだ場合、青色申告の申請期限はいつですか? A. 亡くなった先代が青色申告者だった場合、死亡日が1月1日〜8月31日なら死亡日から4か月以内です。9月1日〜10月31日ならその年の12月31日まで、11月1日〜12月31日なら翌年2月15日までとなります。先代が白色申告だった場合は、業務を始めた日から2か月以内です。
Q. 個人事業の屋号はそのまま引き継げますか? A. 屋号は、後継者の開業届に同じ名前を書けば使い続けられます。ただし、屋号の名義の銀行口座や契約は先代個人のものなので、後継者の名義で作り直す必要があります。
Q. 個人版事業承継税制は誰でも使えますか? A. 使えるのは、青色申告で事業を営んできた先代から、要件を満たす後継者が特定事業用資産を受け継ぐ場合です。都道府県への承継計画の提出と認定、承継後の事業継続などの要件があります。期限は改正で見直されることがあるため、早めに税理士に相談してください。
Q. 個人事業と法人、どちらの形で継ぐほうがよいですか? A. 承継まで時間があり、事業を長く続ける見込みがあるなら、先に法人にしておくと承継は株式の移転で済みます。一方、規模が小さく後継者がすぐに継ぐ場合は、個人事業のまま資産を移すほうが手間も費用も少なく済むことがあります。
Q. 後継者がいない個人事業はどうすればよいですか? A. 廃業の前に、第三者への事業譲渡を検討する道があります。各都道府県の事業承継・引継ぎ支援センターが、無料で相談に乗っています。後継者のいない個人事業主と、事業を譲り受けたい人との引き合わせも行っています。
編集部コメント
コントリ編集部が、事業を継いだ14人の取材記事を読み直したとき、意外だったことがあります。承継税制や株式評価の話に触れていたのは、14人のうち1人だけでした。代わりに皆さんが長く語ったのは、先代との関係、従業員との関係、そして自分の覚悟の置き所です。
制度や届出は、本記事の一覧と期限を追えば進められます。けれども、継いだ人の記憶に残るのは、先代から何を言葉で受け取ったかでした。承継を考え始めた方は、まず先代と後継者で1時間、「なぜこの仕事を続けてきたのか」を話す場をつくってみてください。その会話が、後継者にとっていちばん長く役に立つ引き継ぎ資料になると、私たちは考えています。

